説 教 詩篇98篇1−9節 ヨハネ黙示録2章17節
「勝利を得る者たち」ヨハネ黙示録講解〔15〕
2024・12・15(説教24502097)
「(17)耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほか誰も知らない新しい名が書いてある」。今朝のこの17節の御言葉は、十字架と復活の主イエス・キリストが使徒ヨハネを通してペルガモにある主の教会の御使に語らせたもうた御言葉の終わりの部分です。ここで主は「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」とおっしゃいます。これこそ、いまここに集うている私たち一人びとりに主が求めておられることではないでしょうか。すなわち、私たちは御霊(聖霊)なる神の御言葉に聴く者たちとしてここに招かれているのです。それは2つの意味を持っています。第一に「御霊が諸教会に言うこと」とは礼拝のたびごとの説教であり、第二に、それは十字架と復活の主イエス・キリスト御自身による私たちの救いの出来事であります。
これを言い換えるなら、私たちは主日のたびに宣べ伝えられる説教を正しく聴くことによって「いまここで救いの御業を現わしておられる十字架と復活の主イエス・キリスト御自身の御業に与かる」者たちとされるのです。だから「御霊が諸教会に言うこと」というのはとても具体的なことです。すなわち、説教は牧師が個人的に行うわざではなく、主の御身体なる教会の御業なのです。もっと言うなら、それは聖霊において現臨したもう主イエス・キリストが現わしたもう救いの御業なのです。私たちの葉山教会は改革長老教会の伝統に連なる教会です。もとを辿るならば、それは今から152年前(明治5年)に日本最初のプロテスタント教会としてジェームス・バラ(James Barragh)宣教師のもと、植村正久、篠崎佳之助、押川方義、井深梶之助、本多庸一など13名の青年たちが洗礼を受けることによって横浜に設立された日本基督横浜公会に私たち葉山教会のルーツがあるのです。
そこで「改革派教会」の「改革」とは「神の言葉によって絶えず改革され続ける教会=Ecclesia reformata semper reformanda」という意味のラテン語から来ています。英語で申しますなら“Refoemed Church”ですし、ドイツ語なら“Reformierte Kirche”またフランス語なら“église réformée”となります。いずれにしてもそれはラテン語と同様「御言葉によって改革され続ける教会」という意味の言葉です。そのような私たちの教会の家風(教会としての気質)は「御言葉を聴くことを大切にする教会」ということに尽きるでしょう。御言葉を聴くことを大切にする教会。それこそ今朝の17節の初めにありました「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」この十字架と復活の主イエス・キリストの御声に「アーメン、僕は聴きます。主よ語りたまえ」と反応する教会、それが私たち葉山教会の気質(ethos)であります。「御言三昧・只管礼拝」はまさにこの気質を表しているのです。
さて、そこで今朝の17節の御言葉において、特に注目すべき表現が次に出て参ります「勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう」という御言葉です。これは何やら謎めいた表現であり、いかにも黙示録的な御言葉だとも言えるでしょう。しかしこれは、実はとても分かりやすい御言葉なのです。まず「隠されているマナ」の「マナ」とは、旧約聖書の出エジプト記16章に出てくる「天からのパン=מָן manna」のことです。モーセによって出エジプトをしたイスラエルの民は、荒野の旅路において様々な不平不満を言ったわけです。こんな何もない砂漠で飢えて死ぬよりも、我々は何でも豊かにあったエジプトにいたほうがずっと幸せだったと言ったわけです。そのような忘恩の民イスラエルに対しまして、神が天から与えて下さった食べ物がマナです。だからそれは完全に恵みの賜物なのです。
さらに申しますなら、このマナという天からのパンは、十字架の主イエス・キリストの贖いの恵みを表しているのです。それは測り知れない罪人なる私たちの救いのために与えられた生命のパンだからです。ですから主イエス・キリストみずからヨハネ伝6章35節において「(35)わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はけっしてかわくことがない」とおっしゃいました。また同時に主は同じヨハネ伝6章38節以下においてこのように語っておられます。「(38)わたしが天から下ってきたのは、自分の心のままを行うためではなく、わたしを遣わされたかたの御心を行うためである。(39)わたしを遣わされたかたの御心は、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。(40)わたしの父の御心は、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。
ここではっきりとわかりますことは、十字架と復活の主イエス・キリストが私たちに与えて下さる救いが、どんなに確かなものであるか、そして、どんなに慰めに満ちたものであるかという事実です。私たちの主は「(39)わたしを遣わされたかたの御心は、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。(40)わたしの父の御心は、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」とはっきりとおっしゃるのです。それこそ死に打ち勝つ唯一の永遠の生命を、十字架と復活の主イエス・キリストは信ずる者すべてに与えて下さるのです。この約束以上に確かなものはないのです。それは主イエス・キリストによる新しい契約(New Testament)なのですから。
そして、私たちが2番目に注目すべき「白い石」の意味も、まさにそこから明らかになるのではないでしょうか。初代教会の時代、いまから2000年の昔ですが、ローマ帝国において「白い石」は裁判における無罪判決の印でした。すなわち被告人は裁判官から小箱を受け取ってそれを人々の前で開きました。もしその中に黒い石が入っていたら有罪の判決であり、白い石が入っていたら無罪の判決でした。それと同じようにいま、測り知れない罪人でしかない私たちのために、神の御子イエス・キリストが身代わりになって十字架に生命を献げて下さったことによって、私たちは白い石を主なる神から戴く者とされているのです。「子よ、汝の罪、赦されたり」と宣言して戴けるのです。
そして、それだけではありません。今朝の17節の最後にはなんと書かれていましたか?「この石の上には、これを受ける者のほか誰も知らない新しい名が書いてある」のです。この「これを受ける者のほか誰も知らない新しい名」とは何でしょうか?。それこそ主イエス・キリストという御名です。そしてここに集うている私たち全ての者たちは「あなたは主のものだ」と宣言されたのです。言い換えるならば「あなたは主イエス・キリストの贖いの恵みのもとに永遠に立ち続け、生き続ける、私のかけがえのない子である」と、主なる神みずから、私たちのために宣言して下さるのです。それ以上の幸い、それ以上の祝福、それ以上の喜び、それ以上の救いが、どこにあるでしょうか。だから私たちは、来週はクリスマス礼拝でありますけれども、この待降節第三主日から始まる新しい一週間を、ただ十字架と復活の主イエス・キリストの贖いの恵みのもとに、心をひとつにして歩み続けて参りたいと思います。
終わりに、19世紀ドイツの神学者クリストフ・ブルームハルトの祈りを、ご一緒に祈りたいと思います。祈りましょう。「在天の父なる神よ。われら人の子たちは貧しく、耳が聞こえず、口もきけません。しかしあなたがわれらを日ごとに目覚めさせ『エパタ』という言葉を聞かせて下さいます。それゆえにわれらは感謝し、あなたがわれらにして下さることを喜びます。われらの主イエス・キリストの大いなる終末を待望することにおいて、われらが一つとなりうるように、われらを助けて下さい。キリストがあなたの御子として、救い主として、全ての人間の前に義とされるようにして下さい。全能者なるあなたは救い主においてわれらにお会い下さいます。この救い主によって、全能者なるあなたは、新しく語られるのです。光あれと。生きよと。死の闇から生命が生まれよと。そしてキリストが全ての人間の救い主となるようにして下さるのです。なお最も深い闇の中に立つ者の救い主ともなるようにして下さるのです!在天の父よ、み名が崇められますように!主の御名によりて。アーメン」。