説     教             箴言1317節   ヨハネ黙示録2811

                「死に至るまで忠実なれ」 ヨハネ黙示録講解〔13

                2024・12・01(説教24482095)

 

(8)スミルナにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『初めであり、終わりである者、死んだことはあるが生き返った者が、次のように言われる。(9)わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人ではなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。(10)あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。(11)耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない』」。

 

 今朝のこの28節から11節までの御言葉は「スミルナにある教会の御使」に向けて、十字架と復活の主イエス・キリスト御自身が、使徒ヨハネに命じて書き取らせ、語らせたもうた福音の御言葉であります。そこで改めて私たちは、なぜ十字架と復活の主イエス・キリストは、ここで「スミルナにある教会に(書き送りなさい)」とはおっしゃらずに、敢えて「スミルナにある教会の御使に(書き送りなさい)」とお語りになっておられるのか、この大切なことを再確認したいと思うのです。この「御使」というのは原文ではアンゲロスつまり「天使」のことです。つまり十字架と復活の主イエス・キリストは「スミルナにある教会の天使に(書き送りなさい)」とヨハネに命じておられるわけです。これはアジヤにある七つの諸教会に宛てた全ての御言葉に同じように命じられていることです。

 

 なぜ主は「天使に(向けて)」書き送りなさいと命じておられるのでしょうか。それはこの「天使」(御使)という言葉が、私たち主イエス・キリストの御身体に連なる者たちにとって最も大切な、そして幸いな出来事を告げているからであります。それはなにかと申しますと、私たち主の教会に連なる者たちは、天使的な職務(奉仕のわざ)に生きる僕たちとされているからです。ですから12世紀イタリアの神学者トマス・アクィナスは「教会のわざは天使的職務(元のラテン語で申しますならofficia angelica)である」と語りました。そこで、この“officia angelica”と申しますのは意訳するなら「私たち主の御身体なる教会に連なって生きる者たちは、まさにその恵みの事実においてこそ、天使的な務めに生きる僕たちとされている」ということであります。

 

 言い換えるならこれは「教会が真の教会であることの、もっともたしかな徴である」と言ってもよいでしょう。それこそ宗教改革者カルヴァンやブリンガーが語った「教会が真の教会であることの3つの徴」すなわち「@ 聖書が説教において常に正しく宣べ伝えられ、A 聖礼典が御言葉に従って正しく執り行われ、B 教会員が御言葉によって正しく神の御業へと向けて整えられ強められていること」この3つの徴です。言い換えるなら、十字架と復活の主イエス・キリストはいま、スミルナにある主の教会に(そして同時に、いまここにある私たち葉山にある主の教会に)「あなたはいま、そのような天使的な務め(奉仕のわざ)に正しく生きる僕たちとされているか?」と問いたもうておられるのです。ですからこの「御使に書き送りなさい」という言葉はとても大切なものだと言わねばなりません。それこそまさに、私たちの教会の本質が(教会が真の教会であることの3つの徴が)問われている御言葉なのです。

 

 さて、そこで今朝は、この「スミルナにある教会の御使に」書き送られた福音の御言葉の中で、私たちは特にひとつの御言葉のみに思いを集中して参りたいと思います。それは10節にある「死に至るまで忠実であれ」という御言葉です。私たち現代人はこういう御言葉を聴きますと、なんだか江戸時代に引き戻されるような気がするのではないでしょうか?。ずいぶんと封建的な戒めだと感じてしまうのではないでしょうか?。しかし、江戸時代どころではありませんよ。これは実に2000年前の「スミルナにある教会の御使に」書き送られた主イエス・キリストの御言葉なのです。どうじにそれは、いまここに集うている私たち一人びとりに、十字架と復活の主イエス・キリスト御自身が語り告げていて下さる福音の御言葉なのです。

 

 「信仰生活において、教会生活において、あなたがいちばん大切なこととしている事柄は何ですか?」と問われたなら、皆さんはどのようにお答えになるでしょうか?。私は、今朝のこのヨハネ黙示録210節に、その最も大きな答えがあると思うのです。それが「死に至るまで忠実であれ」ということです。私の大先輩にあたる永井修先生が、あるとき、このようなことをおっしゃいました。「教会に来る人は多い。しかし続けて礼拝に出席する人は少ない。礼拝に出席する人は多い。しかし洗礼を受ける人は少ない。洗礼を受ける人は多い。しかし死に至るまで信仰を持ち続ける人は少ない」。私はそれを聞いて、本当にその通りだと思いました。教会に来る人は多いのです、しかし、続けて礼拝に出席する人の数は本当に少ないのです。礼拝に出席する人は多いのです、しかし、洗礼を受けるに至る人は本当に少ないのです。洗礼を受ける人は多いのです、しかし、死に至るまで忠実に信仰に生き続ける人は本当に少ないのです。

 

 この永井修先生が天に召されてから出版された「地の果てまで」という著書の中に、永井先生が森小路教会での最後の礼拝に於いて語られた説教が記されています。その中で永井先生は、その日の礼拝に出席した人たちにこういうことを語っておられます。「私が天に召される日は遠くないと思う。しかし、私の葬儀になど来なくてよいです。それよりも、礼拝を大切にして頂きたい。教会生活を大切にして頂きたい。そして、どうか死に至るまで忠実な、キリスト者の人生を歩み抜いて頂きたい。それが私の心からの願いです」。私はこれを読みながら、ああ、永井先生は真の牧会者であられたなあと、改めて感じたことでした。「私の葬儀なんかに来なくて良い。それよりも、礼拝を大切にしてほしい。そして死に至るまで忠実な、キリスト者の人生を歩み抜いて頂きたい」。私も、ついこの間まで若手の牧師の一人だと自負しておりましたものが、いつしか永井先生が牧師を引退された年齢に近づきつつありますが、私の思いはどうかともし皆さんから訊ねられましても、私もまた永井先生と同じことを申し上げたいと思うのです。

 

 あと何年、この葉山教会の説教壇に立たせて戴けるか、それは私にもわかりません。それは主なる神がお決めになることです(私の最も親しい友であった水野穣牧師は6年前に60歳で天に召されましたし、同級生だった大住雄一牧師も5年前に天に召されました)しかし、私もまた牧会者の一人として、永井先生と同じ思いをいつも抱いています。私が天に召されても、私の葬儀なんかに来なくても良いです。どうかそんなことよりも、毎週の礼拝を大切にして頂きたい。どうか死に至るまで忠実なキリスト者の人生を歩み抜いて頂きたい。それが私たち、主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会に連なる僕たちにとりまして、最も大切なことなのではないでしょうか。そして、ここに敢えて辛辣なことを申しますけれども、葉山教会は本当に良い教会ですけれども、しかし、この一点において、つまり「死に至るまで忠実なれ」という一点におきましては、主なる神のご期待に十分に従いえていなかった、主のご期待をしばしば裏切ってきた、そのような弱さ、破れ、至らなさ、罪が、あったのではないでしょうか。

 

 いまここに集うている皆さんは、私たちは、どうか「死に至るまで忠実なれ」との十字架と復活の主イエス・キリストの御言葉に「はい、私は死に至るまで忠実な僕であり続けます」と、喜んでお答えする、答え続けてゆく、そのような真のキリスト者の生涯を歩む者たちとして、御前に生き続けて参りたいと思うのです。今日のヨハネ黙示録の御言葉は、ただこの一事のみを私たちに力強く宣べ伝えているのでありまして、この一事に私たち全ての者たちの熱き祈りが注がれてゆくことこそ、私たちが教会の唯一の主なる、十字架と復活の主イエス・キリストの測り知れない贖いの恵みにお応えしてゆく道であることを、改めて深く、強く、思わされつつ、新しい一週間の信仰の旅路へと遣わされて参りたいと思います。祈りましょう。