説 教 創世記2章7−9節 ヨハネ黙示録2章6−7節
「命の木の実」 ヨハネ黙示録講解〔12〕
2024・11・24(説教24472094)
「(6)しかし、こういうことはある。あなたはニコライ宗の人々のわざを憎んでおり、わたしもそれを憎んでいる。(7)耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう」。十字架と復活の主イエス・キリストは、エペソにある教会に対する福音の御言葉(救いの御言葉)を、使徒ヨハネにお告げになり、それを宣べ伝えさせたまいます。ここに、今朝の7節に「ニコライ宗の人々のわざ」という言葉が出てきます。
私がまだ東京の教会におりましたとき、私は約3年かけてこのヨハネ黙示録の連続講解説教をしたのですけれども、ある日、礼拝が終わって一人の婦人が私のところに参りまして「先生、このニコライ宗というのは、神田のニコライ堂のことでしょうか?」と私にお訊きになった。私はびっくりしまして、ああそうか、ニコライという名前ですぐに思い出すのは神田のニコライ堂のことだよなと、思い返しまして、すぐにそのご婦人に答えました。「いいえ、ヨハネ黙示録に言われているニコライ宗というのは、神田のニコライ堂とは何の関係もありませんよ」。ちなみに、神田のニコライ堂の正式名称は「日本ハリストス正教会東京復活大聖堂」(Καθεδρικός Ναός της Ανάστασης του Τόκιο της Ορθόδοξης Εκκλησίας της Ιαπωνίας)です。
では、この「ニコライ宗の人々」というのは、どのような人たちのことだったのでしょうか?。「ニコライ宗」(正確にはニコライの分派=ニコライの異端)と呼ばれる団体の正体については古来より幾つかの説があります。ある学者は使徒行伝の6章に出てくる「アンテオケの改宗者ニコラオ」と関係があるのではないかと推測しますが、逆にそこには聖書的根拠が全くありません。そこで、最近の新約聖書学の研究によれば、この「ニコライ宗の人々」というのは、どうも信仰と生活とを別々のものだと考えていた人たちのことらしいのです。つまり、ある意味で合理主義者たちなのですね。信仰は信仰、生活は生活。どういうことかと言いますと、イエス・キリストを「主」と信じていればそれだけで十分なのであって、あとは実生活においてどんなに不道徳なことをしていても構わないんだ、要するに「信仰さえあれば救われるんだ」という考えかたの人たちであったらしいのです。
そういたしますと、これは案外、ある意味において現代人の考えかたと似ているのではないでしょうか。現代に生きる私たちも、信仰生活においてあんがい合理主義的な考えかたをしているのではないでしょうか。あたかもテレビのチャンネルを切り替えるように、信仰は信仰、生活は生活と、器用に切り分けて考えていることはないでしょうか?。これは同時に、新約聖書の中で主イエスを攻撃しているパリサイ人の考えかたでもあります。パリサイ人たちも、外見上は敬虔な風を装ってはいましたが「律法を守ってさえいれば救われるんだ」(逆に言うなら、律法以外のことはどうだって良いんだ)という考えかたをしていたからです。ですからキリスト教の名を騙ったパリサイ主義がニコライ宗であったとも言えるのです。
しかし、まさにそのような「ニコライ宗の人々のわざ=考えかた」を、エペソの教会の御使たち(天使たち=教会の使徒的職務)は「(あなたはそれを)憎んでいる」と十字架と復活の主イエス・キリストは言われるのです。そればかりではなく、主イエス・キリスト御自身も「わたしもそれを憎んでいる」とおっしゃるのです。そしてこの「憎む」と訳された元々のギリシヤ語は「排除する」とか「退ける」という意味の言葉です。つまり、信仰と生活とを器用に切り替えて生きようとするパリサイ主義的な信仰生活(ニコライ宗の人々のわざ)を、私たち主の御身体なる真の教会に連なる者たちは、私たち自身の中から排除し、退けなければならないのです。エペソの教会の信徒たちは、そのような生きた信仰の善き証をしていた人々であったということがわかるのです。
そして、それだからこそ、続く7節の御言葉がとても大切です。「(7)耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう」。ここに「神のパラダイスにあるいのちの木の実」という言葉が出てきます。これはなにをさしているかと言いますと、旧約聖書の創世記2章7節以下に出てくる「命の木の実」を現わしているのです。そこをご一緒に読んでみましょう。「(7)主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。(8)主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。(9)また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた」。
大切なことは、この9節にある「命の木」というのは非常に多い、たくさんあるのです、複数形なのです。それこそエデンの園のいたるところに、主なる神は「命の木」を置かれて、成長せしめたもうて、それを私たち人間の肉体と魂に不可欠な根源的な祝福の食物としてお与えになったのです。それに対して「善悪を知る木」はたったの一本です。ところが、私たち人間の罪はどういうものであるかと申しますと、その、園の至るところにある「見て美しく、食べるに良い」「命の木の実」ではなくて、たった一本しかない「善悪を知る木」の実を取って食べたわけでありまして、そこにこそ、私たち人間の罪の本質が現れているのです。
それは、自分が神のようになって「善悪を知る存在」にのし上ろうとするディオニュッソス的願望と悪魔的欲望に取り憑かれた人間の姿です。更に申しますなら、自分が神になろうとする人間の姿です。ニーチェの言うところの「超人」たらんとする人間の姿です。自己中心性の極致として、自分が神になるまで決して止むことのない欲望をひっさげて、ただひたすらに自己完結化・自己栄化の道を歩み、そしてひたすらに他者排除・単一的価値観の充足への道を突き進まんとする人間の姿、それこそが聖書が語る私たちの罪の本質なのです。それこそバベルの塔を築いて自分たちを神にまでのし上げようとする人間の姿です。しかしその結果はハベル(果てしなき混乱)でした。真の神から離れて自己栄化(自己神格化)に生きんとするとき、私たちは果てしなき混乱(カオス)の歴史を作る以外になくなるのです。
しかし今や、エペソにある主の教会に連なる人々は(同時に、葉山にある主の教会に連なる私たちも)「ニコライ宗の人々のわざ」を私たち自身の中から排除し退けることを通して、まさに「私もそれを憎んでいる」とおっしゃる十字架と復活の主イエス・キリストの御心に心を合わせて、真の教会生活に生きる群とされているのではないでしょうか。それは「善悪を知る木の実」ではなく、主なる神が私たちのために備えて下さった「命の木の実」を喜んで食べ、そして主の栄光を現わす者たちとして生きる、真のキリスト者の生活であります。そして、まさにその「命の木の実」とは、主の御身体なる教会において宣べ伝えられる福音の御言葉(神の言葉)なのです。
私たちは神の御言葉によってこそ、真に生きた者になるからです。それこそ主イエス・キリスト御自身が語られたように「人が生きるのはパンによってではなく、神の御口より出るひとつひとつの言葉による」のです。洗礼を受けることも同じ意味を持ちます。洗礼を受けるとは、なにかその日から新しい自分になること(なれたような気になること)ではありません。そうではなく、洗礼を受けるとは、罪と死に支配されていた古き自分の生命を、十字架と復活の主イエス・キリストの生命が(復活の生命が)覆って下さる(包み込んで下さる)ことを知ることです。だから使徒パウロは「私たちはキリストを着た者になる」と語っています。
どうか、今日から始まる新しい一週間の生活もまた、私たち一人びとりが「命の木の実」である神の御言葉によって絶えず養われ、生かされ、真の自由と幸いを与えられたものとして、信仰即生活・生活即信仰であるところの真のキリスト者の歩みを、主と共に、主の愛と祝福の内を、歩んでゆくものでありたいと思います。まさにそのキリスト者の歩みにおいてこそ、いっそう力強く、真実で、忠実な、喜びに満ちた群れであり続けて参りたいと思います。祈りましょう。