説     教           詩篇5522節   ヨハネ黙示録215

              「エペソにある教会への言葉」ヨハネ黙示録講解〔11

                2024・11・17(説教24462093)

 

(1)エペソにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。(2)わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちを許しておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒ではない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。(3)あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。(4)しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。(5)そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起こし、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう』」。

 

 今日から私たちはヨハネの黙示録の第2章に入って参ります。そこで、ここには当時のローマ帝国のアジア州にあった七つの教会に対する具体的な主の御言葉が書き記されているのです。まず私たちが心に留めますのは「エペソにある教会への御言葉」です。すなわち今朝の1節をご覧になりますと「エペソにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる」とあることです。この「右の手に七つの星を持つ者」と申しますのは、これら七つの教会の使徒的な働きを司りたもうのは、教会の唯一の主にして頭でありたもう、十字架と復活の主イエス・キリスト御自身である、ということです。そして「七つの金の燭台の間を歩く者」とは、これら七つの教会がただ「主イエス・キリストの御身体なる教会」であり、キリストのみが教会の唯一の主にいましたもう事実を明確に示しているものです。

 

(19966月、横浜指路教会において行われた東京神学大学後援会神奈川支部総会におけるS氏の発言。「中村色に染まった教会」?。教会はただキリストの御身体、キリストの所有であって、それ以外の「主」つまり「七つの金の燭台の間を歩く者」はありえない。それ以外の「主」を奉じる教会はもはや教会ではない。Church (Kirche) の語源は古典ギリシヤ語のkuriaconである。私たちの教会は“Kuriakon en Hayama”つまり葉山にある主の家である。植村正久と海老名弾正の説教の違い)

 

 さて、そこで「エペソにある教会」に対する主の御言葉であります。どうぞ2節以下をご覧ください。「(2)わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちを許しておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒ではない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。(3)あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった」。エペソは当時のローマ帝国アジア州における商業交易の中心都市であり、そこには東西南北から様々な文化や人々が往来していました。そうした文化的多様性の渦中にありまして、エペソの教会は「本物のキリスト者を見抜く感性」を持っていたということがわかるのです。どういうことかと申しますと、エペソの教会は、文化的多様性の中で時代の変遷と共に揺れ動く根無し草になるのではなくて(それはとても簡単なことです)しっかりと福音(神の言葉)に根を張って本物のキリスト者にならんとする志に満ち溢れた教会であったということがわかるのです。

 

 私は、これは私たち葉山教会の雰囲気(家風)と似ているのではないかと思います。これは私の分析ですが、私たち葉山教会の雰囲気が形作られるにあたって、もっとも大きな影響力を持った牧師先生は2代目の杉田虎獅狼先生(1934-1945 在任)ではなかったかと思っています(ちなみに杉田先生は私の同級生で、現在、東北学院大学で神学を教えている野村信牧師の大叔父にあたる人です)。まさにそのようなエペソにある主の教会、まさに私たち葉山にある主の教会に対して、「しかし」と主イエス・キリストはお語りになるのです。どうぞ4節と5節をご覧ください。「(4)しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。(5)そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起こし、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう」。

 

 これはエペソにある主の教会に対する御言葉でありますが、それゆえにこそ、同時に、私たち葉山にある主の教会に対する十字架と復活の主イエス・キリストの御言葉であると申さねばなりません。主の教会にとって最も大切なことは何でしょうか?。それは「初めの愛(キリストにおける神の愛)から離れないこと」なのです。それにもかかわらず、エペソにある主の教会は「あなたは初めの愛から離れてしまった」と言われているのでして、これはとても辛辣な、それゆえに的を得た的確な勧めの御言葉だと申さねばなりません。まさにいま、教会の唯一の主にして頭でありたもう十字架と復活の主みずから、私たち葉山にある主の教会に連なる全ての者たちに対して「(4)しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。(5)そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起こし、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう」と仰せになっておられるのです。

 

 ここで「初めの愛」と言われているのは「キリストにおける神の愛」のことです。すなわちそれは、同じ新約聖書のローマ書831節以下の御言葉に告げられている「十字架と復活の主イエス・キリストにおいて現わされた神の愛」のことなのです。「(31)それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、誰がわたしたちに敵し得ようか。(32)ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。(33)だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。(34)だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」。

 

 このローマ書8章で最も大切なことは、32節に「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」とあることです。ジョン・オーマンの言葉を借りるなら、十字架と復活の主イエス・キリストの絶対的なGrace Priority(恵みの優越性)がここに明確に告げられているのです。つまり、いまここに集うている私たちにとってのGrace Priority(恵みの優越性)は誰にあるのか?と問われているわけであります。ここにおいてこそ、私たちは使徒パウロや使徒ヨハネと共に明確に「私たちの救い主はただ、十字架と復活の主イエス・キリストのみです」と声高く応える主の教会であり、また、そうあり続けなければなりません。