説     教          詩篇8415節  ヨハネ黙示録11920

                  「奥義を書きとめよ」ヨハネ黙示録講解〔10

                2024・11・10(説教24452092)

 

(19)そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。(20)あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である」。父なる神と等しい栄光の輝きの内に、愛する使徒ヨハネに御自身を現わして下さった復活の主イエス・キリスト。まさにこの十字架と復活の主イエス・キリスト御自身が、いまヨハネに「奥義」をお告げになるのです。そこで、今朝の20節で「奥義」と訳された元々のギリシヤ語は“mysterion”です。これは「開かれて示されるべき事柄」という意味です。単なる秘密ではないのです。それは全世界を救う神の御言葉なのですから「開かれて示されるべき事柄」なのです。

 

 「あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい」と、十字架と復活の主イエス・キリストはヨハネにお命じになりました。まさにこの「見たこと」が十字架と復活の主イエス・キリストとの出会いであり、その十字架と復活の主イエス・キリストが「現在のこと、今後起ろうとすること」を使徒ヨハネにお語りになろうとしておられるのです。そしてその事柄(奥義=mysterion)はなによりも「七つの教会」に向けて語られるものです。その「七つの教会」というのは、具体的にはエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒア、ラオデキヤ、この七つの、当時のローマ帝国アジア州にあった諸教会のことなのですけれども、これら七つの教会に共通しておりましたことは、どの教会も非常に激しい迫害の嵐にさらされていたことでした。

 

 このヨハネの黙示録が書き記されたのは西暦96年のことです。このころから既に約260年間続くことになるローマ帝国による組織的なキリスト教迫害の嵐が始まっていたのでした。特に今日のトルコ南西部にあったアジア州の七つの教会は、壮絶な迫害の嵐の中にいきなり放り出された(晒された)わけです。これら七つの教会の信徒たちは、主イエス・キリストを「わが主・救い主=kurios」と信じ告白する、ただそれだけの理由で、家を焼かれ、家族を引き離され、職を奪われ、街を追い出され、学校を退学させられ、夫と妻、親と子は引き離され、拷問を受けたり、投獄されたり、死に至らしめられた人々も少なくなかったのです。

 

 当時のアジア州の七つの教会にまつわる迫害の出来事の中で、今日も私たちが見ることができるひとつの印があります。それは十字架の代わりに魚の印をキリスト者の証として用いることです。魚のことをギリシヤ語で“IXTUS”と言うのですけれども、それは「イエス・キリストは神の子であり救い主である」という意味のギリシヤ語の5つの頭文字なのです。当時の七つの教会の人々は、迫害の嵐の中で十字架の印を用いることができなかったものですから、その代わりに魚の印を用いたのです。そのようにして、自分たちは「イエス・キリストは神の子であり救い主である」と信じる者たちであること、まさにその信仰告白のもとに堅く立ち続ける群れ(教会)であることを言い現わしたわけです。

 

 ところで、今朝の20節の御言葉の中に、私たちが特に注目すべき表現があります。それは「…すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である」という御言葉です。特にこの「七つの星は七つの教会の御使である」とはどのような意味なのでしょうか?。「御使」とは申すまでもなく天使のことです。東京の四谷に“Johannes Buchhandlung=ヨハネ書店”というドイツ語の神学書専門店があるのですが、そこに行きますと「天使学=Angelologie」と書かれた書棚があります。もうこれを見ただけで、ああここはカトリックの神学書を扱う店なんだなとわかるわけです。三大天使とは誰と誰と誰だとか、ミカエルとガブリエルとラファエルはどう違うのかとか、悪魔とは堕落した天使のことなのかとか、そういうことが書かれている本が並んでいるわけです。もちろん私はそういう本を買って読もうとは思いません。

 

 「御使=天使」とは、そういうことを論じるべき存在なのでしょうか?。そうではないと思います。そもそも天使を意味する元々のギリシヤ語“Angelos”は「御言葉を宣べ伝える者」という意味です。「福音の伝達者」のことなのです。そういたしますと、まさにそれは教会の務め(教会の職務)そのものではないでしょうか。ですから13世紀のイタリアの神学者トマス・アクィナスは「教会の職務は天使的職務である」と語りました。つまり、いまここに集まっている皆さん一人びとりが「天使的職務=天使の働き」を担う人たちなのだということです。そういたしますと、こういうことになるのではないでしょうか。ローマ帝国(ローマ皇帝)による迫害によって、まさにアジア州にある七つの教会の「天使的職務」が大きな試練にさらされているのです。大きな苦しみの中で、まさにキリストの教会がキリストの教会であり続けることが試されたのです。

 

 まさにこの教会の「天使的職務」の継続と本質が問われる、国家による教会迫害という深刻な事態のただ中にありまして、十字架と復活の主イエス・キリストは使徒ヨハネに対して、七つの教会の天使にあなたのまなざしを注ぎなさいとお命じになるのです。それは同時に、ここに集うている私たち一人びとりに対する主の御言葉でもあります。言い換えるなら、主はいま私たち一人びとりに「あなたはいま天使的職務に健やかに生きるキリスト者となっているか?」と問うておられるのです。それは同時に、私たちが十字架と復活の主イエス・キリストの御身体なる、聖なる使徒的な教会にしっかりと連なって生きる者になっているかという問いかけです。私たちはいま、本当に教会生活を大切にするキリスト者になっているでしょうか。そうではなくて、個人的主観的な信仰者になってしまっていることはないでしょうか。それは同時に「天使」の語源である“Angelos”が示すように、私たち一人びとりがいつも、神の御言葉である福音によって養われ、導かれ、喜んで信仰に生きる僕となっているかどうかという問いでもあるのです。

 

 そして、どうかここでこそ、今朝の最初の19節の御言葉に改めて心を向けたいと思います。「(19)そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい」とあることです。私はここに、十字架と復活の主イエス・キリストが使徒ヨハネに「語りなさい」ではなく「書きとめなさい」とお命じになられたことが大切だと思うのです。どうしてかと申しますと、これは些か私の説教準備のことに言及することになるのですけれども、私はいつも、牧師になって43年経ちますが、ずっと説教の原稿を「書く」ことを大事にして参りました。なぜかと申しますと、神の御言葉である福音をまず「書きとめること」がそれを「宣べ伝えること」に先立つからであります。どういうことかと申しますと、それは私という人間個人の思想や体験を語るのではなくて、まさに説教であるという本質において、それこそ今朝の19節の御言葉のとおり「あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい」と、十字架と復活の主イエス・キリストが私に命じておられるからです。私は、説教者たる牧師の務めもまた、その意味においてこそ「天使的職務」であると考えています。

 

 使徒ヨハネもまた、そのことをいつも、心に深く銘記していたのではなかったでしょうか。「あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい」そして、書きとめたことを全ての人にそのまま宣べ伝えなさい。自分に対してではなく、主なる神に対していつも忠実であり続けなさい。そのような使徒としての務めにおいて、使徒ヨハネはいつも、主の教会の「天使的職務」を喜び勇んで担い続けた生涯を歩んだのではないでしょうか。だからエイレナイオスは最晩年の使徒ヨハネにパトモス島で会った時の印象を「老使徒ヨハネは90歳を超えていたが、なお喜び勇んで主に仕え、キリストの使徒として全ての人に福音の御言葉を説教し続けた」と語っているのです。

 

私たちここに集うている一人びとりもまた、そのような「御言葉に養われ、改革されてゆく主の教会」の枝として、天使的職務を担う幸いに生きる僕たちであり続けたいと思います。そして、主が再び来たりたもうその日「善き忠実なわが僕たちよ、御国の冠を受けなさい」と言って戴けるような真の主の御身体なる教会を、ここに形作って参りたいと思います。祈りましょう。