説 教 イザヤ書6章6−8節 ヨハネ黙示録1章17−18節
「われかつて死にたりしが」ヨハネ黙示録講解〔9〕
2024・11・03(説教24442091)
「(17)私は彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、『恐れるな。私は初めであり、終りであり、(18)また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている』」。
使徒ヨハネに父なる神の栄光と共にある御自身の御姿を現して下さった主イエス・キリストは、ヨハネに生命の御言葉である福音をお告げになるのです。ここにおいてヨハネは預言者になります。預言者とは「神の御言葉を預かって、それを忠実に正しく全ての人に宣べ伝える者」のことです。すなわち、それは私たちキリストの御身体なる教会の使命です。教会は預言者の職務を主から委ねられた群だからです。まずこのことを私たちの心に再確認しました上で、今朝の18節以下の御言葉をご一緒に読んで参りましょう。
そこで17節に初めを見ますと「私は彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった」とございます。父なる神の栄光の輝きの一端を垣間見た使徒ヨハネは、その栄光の輝きの前に、自分がいかに立ち得ざる存在であるかを痛感したのでした。そして、悔改めの心を持たざるをえませんでした。悔改めとは「神に立ち帰ること」です。私たち人間の救いはただ「神に立ち帰ること」にのみあるからです。生命と祝福の源である神から離れて、どうして、どこに、いつ、私たちの救いがあるでしょうか。
ですから、この17節に使徒ヨハネが主イエス・キリストの「足もとに倒れて死人のようになった」とございますのは、使徒ヨハネが真の悔改めによって古きおのれに死んだことを表しています。洗礼のことをバブテスマと言いますが、そのギリシヤ語の語源である「バプティゾ」とは「水に沈める」という意味です。水に沈められたら私たちは死んでしまいます。それと同じぐらい、否、それ以上の確かさで、私たちは古き罪のおのれに死んで、復活のキリストが与えて下さる新しい永遠の生命に甦らせて戴く。この復活の恵みに与かるためにこそ、使徒ヨハネは主イエス・キリストの御足元に倒れて「死人のようになった」のでした。
このヨハネに対して、十字架と復活の主イエス・キリストは、新しい生命を授ける祝福を与えて下さいました。どうぞ17節の続きをご覧ください。「すると、彼は右手をわたしの上において言った、『恐れるな。私は初めであり、終りであり、(18)また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている』」。十字架と復活の主イエス・キリストは、右手を(祝福の御手を)使徒ヨハネの上に置きたもうて、そしてヨハネにはっきりとこう告げて下さったのです。「恐れるな。私は初めであり、終りであり、また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている」。
今朝のこの御言葉を読まれたとき、皆さんがここで、いちばん心を惹かれる御言葉はいったい何でしょうか?。私はそれはなんと申しましても18節に示されている「わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である」という御言葉ではないかと思うのです。どうぞ考えてみて下さい、私たち人間の誰が、たとえそれが全世界を支配下に収めた者だとしても、「わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている」と言うことができるでしょうか?。かつて私が神学校時代にラテン語の講義で習った言葉に“Cinis omnia paria”(塵は全ての人を平等にする)というものがありました。たとえいかなる権力者といえども、死の前には無力な一個の人間に過ぎないのです。だから「塵は全ての人を平等にする」のです。
しかし、永遠の神の唯一の御子なる主イエス・キリストは、ひとたび私たちの罪の贖いのために十字架に死なれましたけれども、私たちと全世界の救いのために3日目に墓から復活したまい、まさにいま生きて救いの御業を、私たち全ての者になさっておいでになるおかたなのです。聖霊と御言葉によっていまここに現臨したもう十字架と復活の主イエス・キリストこそ、私たちがいま礼拝を献げておりますそのおかたに他なりません。これこそ、まさに本当に驚くべき恵みではないでしょうか?。キェルケゴールは、もしも私たちがキリストの恵みに驚かないなら、この世界には私たちが驚くべきものは何ひとつないだろうと申しました。本当にそのとおりではないでしょうか。十字架と復活の主イエス・キリストのみが、過去、現在、未来、その全ての時において私たちの唯一の真の救い主にいましたもうのです。この恵みに対して、どうして驚かずにおれるでしょうか。
皆さんはお気づきかもしれませんが、聖餐式のたびごとに私が必ず朗読する聖書の御言葉に(それは第一コリント書11章23節以下なのですが)このように記されています「汝らこのパンを食し、この杯を飲むごとに、主の死を示して、その来たりたもう時にまで及ぶなり」。ここにもはっきりと「主の死を示して、その来たりたもう時にまで及ぶなり」と語り告げられています。このおかたは、永遠の神の唯一の御子であられる十字架と復活の主イエス・キリストは、私たち全ての者の救いのために、死に勝利して下さった唯一のおかたなのです。それこそニカイア信条に告白されているとおり「真の神にして真の人」として、ただ主イエス・キリストのみが、死に勝利して下さったのです。
それは、なんのためにですか?。ここに集うている私たち全ての者たちの救いと生命のためです。教会は「聖徒の交わり」と呼ばれますが、それは「十字架と復活の主イエス・キリストが賜わる生命の糧に共に与かる交わり」という意味です。だから教会はギリシヤ語でコイノニアと呼ばれます。それは「いまここに現臨しておられる主イエス・キリストが賜わる生命の糧に共にあずかる者たちの集い」という意味です。だから私たちの葉山教会はギリシヤ語で言うなら「葉山コイノニア」です。それは「いまここに現臨しておられる主イエス・キリストが賜わる生命の糧に共にあずかる者たちの、葉山にある集い」なのです。
その葉山コイノニアの中心は何でしょうか?。それこそ、十字架と復活の主イエス・キリストそのものではないでしょうか。逆に申しますなら、十字架と復活の主イエス・キリスト以外の中心を持つ教会はもはやコイノニアではないのです。それこそカール・バルトがバルメン宣言で語ったように「十字架と復活の主イエス・キリスト以外の主を持つ教会は、もはや教会の名に値しない」のです。そのことを使徒ヨハネは改めてはっきりと黙示によって示されたのです。だから黙示録の「黙示」というのは「隠されている事柄」ではなく「開かれ示された神の言葉」を意味する“Apocalypse”です。そのことを今ここに集うている私たちもまた、使徒ヨハネと共にはっきりと、十字架と復活の主イエス・キリストから示されたのです。それが黙示録を読むということであります。
最後に、この十字架と復活の主イエス・キリストは「死と黄泉とのかぎを持っている」おかたです。そういえばマタイ伝16章13節以下の「ピリポカイザリヤにおける信仰告白」の場面で、主イエスは使徒ペテロに「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」と明確にお語りになりました。もし私たちが真の「聖徒の交わり」つまり真の「葉山コイノニア」をここに形成するなら、それは「黄泉の力」にさえ勝利するのです。それこそが、私たち全ての者に与えられている、十字架と復活の主イエス・キリストの驚くべき恵みなのです。このことをどうか心にしっかりと刻みつつ、今朝のこのヨハネ黙示録1章17節18節の御言葉と共に、新しい一週間の旅路へと馳せ参じて参りたいと思います。祈りましょう。