説     教                ルカによる福音書1756

                   「からし種一粒ほどの信仰」 小金教会にて

                   2024・10・27(説教24432090)

 

 「(5)使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。(6)そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう」。今朝の御言葉の最初には「使徒たちは主に『わたしたちの信仰を増してください』と言った」と記されています。ここに福音書記者ルカは敢えて「弟子たちは」とは書かずに「使徒たちは」と書いているのですが、その意味は決して小さなものではないと思うのです。

 

なによりも新約聖書の元々のギリシヤ語で「使徒」とは「主によって遣わされた者」という意味の“アポストロス”という言葉です。逆に言うならそこから「弟子」という言葉も生じたわけですから「使徒」という言葉はキリストの弟子をあらわす言葉としては最も古いものだと言えるでしょう。そこで、私たちの信仰生活もまた、いつも基本に立ち帰ることを求められているのではないでしょうか。その基本とは「私たちは使徒である。つまり私たちは、主によって遣わされた者たちである」という事実にあると思うのです。

 

 たとえば私たちの教会もまた、使徒の務め(使徒的職務)を担う器です。まさに「使徒の働き」を主から委ねられた群れなのです。「聖なる、公同の、使徒的なる教会」と申しますけれども、教会の教会たる所以は、実は使徒性(私たち一人びとりが使徒的職務を担うこと)にかかっているわけです。言い換えるなら、私たちがいつも、使徒伝来の生き生きとした信仰告白に、いまここで生きる群れであり続けているか否か、そこに、私たちの教会が「真の教会」であることの最も確かな徴があるのです。

 

 そこで、今朝の御言葉でございます。今日は私は半澤先生ならびに小金教会の長老会によって、伝道礼拝の説教者としてお招きを賜りました。半澤先生からお電話でご依頼を戴きましたとき、私はとてもその任に耐えうる僕ではないとお断りしたのですが、それは長老会の意向ですと伺って、やはりこれは主なる神からの使命として謹んでお受けせねばなるまいと思い直して、今日この説教壇に立たせて戴いている次第です。

 

そこで、実は「伝道とは何か」という問題は、簡単なように見えて意外に難しいのです。教勢を拡大することが伝道なのでしょうか?。一人でも多くの人に洗礼を授けることが伝道なのでしょうか?。もちろんそうも言えるし、間違ってはいないでしょう。しかし私は、真の伝道とは(熊野義孝先生の教義学を学んだ者として)「主イエス・キリストの御身体なる、聖なる公同の使徒的教会が形成されること」だと考えているのです。それは半澤先生も同じお考えだと思います。

 

なによりもそれは、今朝の御言葉を見ればよくわかるのではないでしょうか。使徒たちは主イエスに「わたしたちの信仰をましてください」と願ったのです。これは言い換えるなら「わたしたちの信仰を正しいものにして下さい」という意味です。ですからルター訳のドイツ語聖書では“Mehre uns den Glauben=私たちの信仰を高めて下さい”という訳になっています。今までの御言葉の中で主イエスがいつも、信仰の大切さについて教えておられた、それに対して使徒たちが呼応して生じた願いだとも言えるでしょう。このような質問は、今日の私たちの教会生活の中でもよく出されるものです。私がおります葉山教会では、毎年、夏と冬に小修養会(リトリート)を行うのですが、そのような学びにおいても、私が講演をした後で教会員のかたから「どうしたら信仰がまし加えられるでしょうか?」「どうしたら正しい信仰を持つことができるでしょうか?」という質問がたびたび出されるのです。それに正しく答えることも牧師の責任でありましょう。

 

 ところが、主イエスのお答えは、やや様相が異なっていました。まるで禅問答のような、ある意味で不思議なお答えを主イエスは使徒たちになさった。どうぞ今朝の6節をご覧ください。「(6)そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう」。本当に禅問答のような答えですよね。神学校時代に船水衛司という先生がおられまして、旧約聖書神学の教授だったのですが、よく禅問答のような不思議なことをおっしゃった。同じように、いったい使徒たちに対する答えになっているのだろうかと、ややもすれば疑問視されるようなお答えを主イエスはなさった。だからこそ、私たちはこの答えを正しく読み解かなくてはなりません。

 

 私は神学校に入る前、農学校で学んだ経験を持つ者です。農学という学問は、応用植物学であり、応用生物学でもある、いわば理系の最前線の学問でして、そこに私は大きな魅力を感じました。実家は農家ではなかったのですが、将来植物学者になりたいと思い、そのためには農学校に行くのが近道だと考えたのでした。そこで、当時17歳の私の心を捕らえ、特に熱中させたものは養蚕と、それに関連する桑の栽培でした。私が通っていた農学校には広大な農場があり、そこに広い桑畑がありました。桑は主に@ヤマグワ系、Aカラヤマグワ系、Bロソウ系、という3つの植物分類学上の系統があるのですが、そのいずれにも共通していることは、桑の木はとても根が深くて丈夫だということです。

 

 植物というとほとんどの人は、土の上に現れた部分しか見ようと(知ろうと)なさいません。しかし当然のことですが、植物は根も含めた全体が一個の植物体なのです。そして地上に現れた部分と、地下の根の部分の比率は、植物全体を100としますなら、平均してだいたい4951ぐらいの割合で、根の体積が僅かに大きいのです。しかしそれが桑になりますと4258ぐらいになります。つまり、桑は他の植物に較べて根が深くて丈夫なので、乾燥にも非常に強く、安定した葉を蚕に供給できるわけです。

 

 ですから、今朝の主イエスの御言葉は(私は農学校時代に洗礼を受けたのですが)実感として私にはわかりました。使徒たちも同じではなかったでしょうか。「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう」。他のどんな木だって無理だと思いますが、ましてや桑の木に『抜け出して海に植われ』と命ずることは無理難題を通り越して200%不可能なことです。それならば、まさにその200%不可能なことを、主イエスは使徒たちに求めておられる。しかも「(あなたがたに)からし種一粒ほどの信仰があるなら」と言われるのです。言い換えるなら、信仰というのはそれほど凄いものなのだ、力があるものなのだ、ということを主イエスは弟子たちに(私たちに)お教えになっておられるのです。

 

みなさんは、大型タンカーなどに搭載される船舶用エンジンで、世界最大のものを作ったのは日本の企業だということをご存じでしょうか?。石川島播磨重工業(IHI)という企業が作った超大型船舶用のディーゼルエンジンは、なんと総出力1,495万馬力、総排気量は2,700CC、大きさは4階建てのビルとほぼ同じです。しかしその巨大なエンジンを始動するスタータースイッチは、小さな一個のスイッチにすぎないのです。「本当にこんな小さなスイッチで、この巨大なエンジンが動くのだろうか?」と思うような本当に小さなスイッチです。いわば信仰もそれと同じだと主イエスは言われるのです。どういうことかと申しますと、それは私たちの力などではないということです。言い換えるなら、私たちの信仰は神という名の巨大な御力に直結しているスタータースイッチなのです。だからこそ「からし種一粒ほどの信仰」で十分だと主は言われるです。

 

 ですから、どうぞ注意して下さい。主イエスが言われる「からし種一粒ほどの信仰」とは、あなたの信仰は小さくて良いのだ、という意味ではありません。ましてや「信仰などどうでも良いのだ」という意味でもありません。そうではなく、あなたの信仰はまことの神に直結したスタータースイッチになっているか?という主イエスからの問いなのです。言い換えるなら、それは信仰告白の問題なのです。十字架と復活の主イエス・キリストをわが主・救い主と信じ告白する信仰に、いつもあなたは健やかに生きているか?いつも使徒として生きているか?という問いなのです。そしてどうか覚えて下さい、もし私たちが真実に、十字架と復活の主イエス・キリストを信じ告白する信仰に生きているなら、私たちの味方は(私たちの力は)私たち自身ではないのです。それは主なる神の恵みの御力なのです。墓を開いて復活して下さった御子イエス・キリストに現れた、全ての人を救う十字架による贖いの御力なのです。

 

 だから、使徒パウロは新約聖書のローマ書831節以下でこのように語っています。「(31)それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。(32)ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか…。(38)わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、(39)高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」。

 

 どうか私たちは、使徒として召された恵みを喜びつつ、この偉大な御力に寄り頼んで生きてゆく者たちであり続けようではありませんか。まさにこの、神の絶大な御力によって、主イエス・キリストにおける神の愛によって、桑の木に「抜け出して海に植われ」と命じても、そのとおりになるのです。今日はじめて教会の礼拝に出席されたかたがおられますなら、どうかそのことを心に留めて戴ければと思います。そしてどうぞ、十字架の主イエス・キリストというスタータースイッチを押す人になって下さい。そして小金教会の主にある兄弟姉妹たちと共に、半澤洋一先生の牧会とご指導のもと、真の救いの幸いを知る人になってほしいと、心から願うものです。主イエス・キリストにのみ、私たち人間の真の自由と幸い、平安と勇気と力があるのです。それは神の御力だからです。祈りましょう。