説 教 イザヤ書6章1−3節 ヨハネ黙示録1章12−16節
「神の栄光の顕現」ヨハネ黙示録講解〔8〕
2024・10・20(説教24422089)
「(12)そこでわたしは、私に呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。(13)それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。(14)そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。(15)その足は、炉で精錬されて光り輝く真鍮のようであり、声は大水のとどろきのようであった。(16)その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃の剣がつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった」。
ここに、いよいよ私たちは、いわゆる「黙示録らしい御言葉」に接することになります。まず12節をご覧ください。使徒ヨハネは「私に呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた」のでした。すぐに目についたものは「七つの金の燭台」であり、13節を見ますと「それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた」と記されています。この「人の子のような者」とは、このヨハネ黙示録と並ぶ旧約聖書における黙示的預言書であるダニエル書の中に記された神の子・主イエス・キリストのことであります。
つまり、使徒ヨハネは、神の永遠の御子なる主イエス・キリストにお目にかかったのです。再会したと言ってもよいでしょう。しかも、その主イエス・キリストのお姿は、神の栄光の顕現(神の栄光の輝き)に満ちたものでした。それはそのはずでありまして、主イエス・キリストは永遠の神の独子であられますから、その本質において主なる神と等しきおかたなのです。それならば、復活して天に昇られ、父なる神の右に座したもう主イエス・キリストが、神の栄光の顕現をもって現れたもうたのはごく自然なことであり当然のことでありましょう。
ところで、私の牧師室の書棚に、1545年にヴィッテンベルクで出版された最初のルター訳ドイツ語聖書のレプリカ(複製本)があります。婦人会や友愛会などでもお見せしたことがあったと思います。宗教改革460年の記念として、つまり1977年にスイスのジュネーヴで出版されたものです。私は当時、貧乏神学生でしたけれどもずいぶん無理をしてこれを買い求めました。たしか当時でも3万円ぐらいはしたと記憶しています。しかしこれを買って本当に良かったと思いますのは、ルターの時代のドイツ語ですけれども、私にもとても良く理解できるのです。ふだん使いの聖書として活用することができます。活字も活版木版印刷の旧書体のドイツ語ですが、かえって現代のドイツ語訳聖書よりも私には読みやすい。ずいぶん分厚い聖書でして1000頁ぐらいあります。そして特筆すべきことは、その1000頁ものページの随所に、当時ルターの友人であったアルプレヒト・デューラーが描いたエッチングによる聖画が挿入されているのです。それを見るだけでも十分に価値のあるものです。
そこで、今朝のこのヨハネ黙示録1章12節以下の御言葉についてですが、アルプレヒト・デューラーはこの御言葉をそのまま解釈したエッチング(銅板線描画)で主イエス・キリストのお姿を描いています。やはり、と申しますか、当然のことながら、いささかグロテスクな感じがするのです。たぶん今朝のこの御言葉をお読みになった皆さんも、この12節以下に記された主イエス・キリストのお姿を想像して、いささかなりとも奇異な感じを抱かれたことだろうと思うのです。しかし(これは偉大な宗教画家であったアルプレヒト・デューラーを擁護するためでもあるのですが)私たちはこの12節以下の表象が意味する本質をとらえなければいけないのです。もちろんデューラー自身もそのような意図をもって絵を描いています。言葉そのものに捕らわれるのではなくて、言葉の意味する本質を理解しなければなりません。
そのような読みかたをするとき、まず私たちの心を捕えてやまないのは、今朝の14節にある「そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり」という御言葉であり、そして16節の「口からは、鋭いもろ刃の剣がつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった」という御言葉ではないでしょうか。思い起こして頂きたいのですが、主イエスはある時、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを伴われてタボル山に登られたことがありました。山の頂上で主イエスのお姿が神の栄光の輝きに包まれたのです。御顔も御衣も、まさに今朝の14節が語っているように「雪のように白い羊毛に似て真白」に輝いたのでした。そして3人の弟子たちは、モーセとエリヤがそこに現れて主イエスと尊い会話を交わしているのを見たのでした。まさに16節が語るように「(主イエスの)口からは、鋭いもろ刃の剣がつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった」のです。
これらすべては「神の栄光の顕現」(神の栄光の輝き)なのです。そして私たちが忘れてなりませんことは、実は、私たちが「神の栄光の顕現」に接すること自体が、私たちの確かな救いに直結しているという事実です。このことを強調して語ったのは4世紀のアタナシウスという教父です。アタナシウスと言えば、西暦325年のニカイア公会議においてアリウス派の教えを退けて、聖書に基づく正統的な教理(キリスト告白)を擁護し、381年のニカイア信条の成立への道筋を立てた神学者です。このアタナシウスが325年のニカイア公会議において、アリウスに対する弁論の中でこういうことを語っているのです。「あなたは使徒ヨハネが黙示録において宣べ伝えている、神の栄光の顕現を知らないのか?。まさに使徒ヨハネを、そして私たち全ての肉なる者たちを罪による永遠の滅びから救い、唯一のたしかな救いを与えるために、御子イエス・キリストは父なる神と等しい栄光をもって、使徒ヨハネに御自身をあらわして下さったのだ」。
つまり、アタナシウスによれば、永遠の神の永遠の独子であられる主イエス・キリストが「神の栄光の顕現」をもって現れて下さったこと自体が、私たち全ての者に対する救いの確かさを保証する恵みの出来事なのです。それはイザヤ書の6章において、若き日の預言者イザヤが神の栄光の顕現に接して救われたのと同じ恵みの出来事であります。何よりも、既にこの礼拝が、いま私たちがともに献げておりますこの礼拝こそが、私たちがこの歴史(人生)のただ中で「神の栄光の顕現」に接する恵みの出来事にほかならないのではないでしょうか。かつて竹森満佐一先生が「真の礼拝が献げられるところに真の教会がある」と語られましたけれども、それは言い換えるなら「真の礼拝が献げられるところに真の救いが現れる」からです。
私たちに与えられた十字架と復活の主イエス・キリストによる真の救いは、神の栄光の顕現と同じようにたしかなもの、永遠に変わらぬ恵みの出来事なのです。だからこそ私たちはアタナシウスが語ったように、使徒ヨハネと共にその神の栄光の顕現に浴して恐れと讃美と感謝とをもって御子イエス・キリストを「わが主・救い主」として告白いたします。まさにそのキリスト告白においてこそ、私たちはいっそう真実な、揺るぎなき群であり続けたいと思います。祈りましょう。