説     教           エゼキエル書135節  ヨハネ黙示録11011

                 「われ主日に御霊に感じ」ヨハネ黙示録講解〔7

                   2024・10・13(説教24412088)

 

(10)ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。(11)その声はこう言った、「あなたが見ていることを書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒア、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい」。

 

 ここには、使徒ヨハネがこの「ヨハネ黙示録」を書くに至った経緯(経験)が記されています。そもそも、使徒ヨハネがエーゲ海の孤島であるパトモス島にいた理由は、そこにローマ帝国による迫害と弾圧から逃れて小アジア(今日のトルコ南東部)から移住してきた大勢のキリスト者たちがいて、その島に建てられた複数の教会の牧師としての働きがあったからでした。「ところが」と今朝の10節の最初に記されています。この「ところが」というのは原文のギリシヤ語ではエゲノマイという言葉でして、これは使徒ヨハネを聖霊なる神が「いま捕らえて下さった」ことを示す言葉です。聖霊なる神はいつでも、まさに私たちの日常生活のただ中で、私たちを新しい世界(新しい恵みの経験)へと導いて下さるかたなのです。

 

 なによりも私たちは、使徒ヨハネが聖霊に感じたのが「主の日」であったことに心を留めたいと思います。そこで、この「主の日」というのはヨハネ黙示録が書かれた西暦96年の時点において、既に私たちと同じ日曜日のことでした。つまり、使徒ヨハネと私たちの経験はこの「主の日」(日曜日)の礼拝においてひとつに繋がっているわけです。決して2000年前に使徒ヨハネだけが特殊な経験をしたということではないのです。いまここに「主の日の礼拝」に連なっている私たち一人びとりもまた「主の日に御霊に感じる」同じ経験を与えられている者たちなのではないでしょうか。

 

 私はこのヨハネ黙示録の連続講解説教をするのは2回目の経験です。最初の経験は37年前のこと、東京の千歳教会にいたときでした。しかしその頃と現在の私とを比較してみますと、やはり御言葉の読みかた、解釈の仕方に大きな違いがあるように感じています。これはいつでもそうなのですが、簡単に申しますと、すでに語られた説教を引き出してもう一度説教をするということはできないのです。それはなぜかと申しますと、聖霊なる神はいつでも、新しい恵みの経験を私たちに与えて下さるからです。それこそ映画のタイトルではありませんが、私たちキリスト者にとっては「今を生きる」ということが大事なのです。

 

 聖霊なる神は、私たちを過去へと引き戻すおかたではなく、新しい恵みの未来へと押し出して下さるおかたです。まさに「今を生きる」群れとしての私たちに、常に新しい恵みと祝福と慰めと力を与えて下さるかたなのです。なぜなら、復活の主イエス・キリストは、いまここに、聖霊によって現在形となっておられるおかただからです。真の神はいかなる意味においても過去のかたではないのです。まさに「今を生きる」私たち一人びとりに、今なくてはならぬ恵みと祝福と導きと慰めを与えて下さるかたなのです。葉山教会の標語は(皆さんもご存じのように)「御言三昧・只管礼拝」です。これは800年前に越前国に永平寺を開山した道元禅師の言行録である「正法眼蔵随聞記」に記されている言葉です。「御言三昧」とは「一意専心に御言葉に聴く群れとなること」です。そして「只管礼拝」とは「礼拝を全生活・全生涯の基軸とすること」です。なぜそれが大切なのか、今朝の御言葉に見事な答えが示されています。「ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた」(われ主日に御霊に感じ)です。私たちにも同じ恵みが与えられているのです。

 

 どうぞ10節の後半以下をご覧ください。「そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。(11)その声はこう言った、「あなたが見ていることを書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒア、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい」。「ラッパのような大きな声」とあるのを欽定訳の英語の聖書では「トランペットのような大きな声」と訳しています。私には学生時代からの全盲の友人がいまして、この人はトランペットを演奏するのが上手なのですが、この友人に言わせますとトランペットというのは終末論的な楽器だというのです。私はそれを聞いて少し驚きまして(終末論的という言葉は神学の専門用語ですから)どういう意味かと訊ねましたら、彼が答えて申しますには、トランペットの音色というのは一切の誤魔化しが通用しないからだと言うのです。私はそれを聞いて大きな感動を与えられました。

 

 もしもその音色を言葉に置き換えるならどうなりますか?。「一切の誤魔化しが通用しない言葉」それこそ神の言葉である福音そのものではありませんか。カール・バルトの言葉を借りるなら「私たちは神の御言葉(福音)の前に中立であることはできない」のです。自分を棚に上げて神の御言葉を聴くことはできないのです。神の御言葉の外側にいることはできないのです。言い換えるなら、私たちの救いは私たちの内側にあるのではないのです。私たちを根拠とした救いは本当の救いでも何でもないのです。そうではなくて、本当の救いはただ神からの一方的な(終末論的な恵みの音信として)赦しと救いの宣言としてのみ私たちに宣べ伝えられるものなのです。だからこそそれは「福音=この上なく喜ばしい救いの音信」なのです。

 

このことを使徒パウロは、ローマ書321節以下においてこのように語っています。「(21)しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。(22)それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。(23)すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、(24)彼らは価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」。まさにこの福音が、トランペットのような大きな声で、使徒ヨハネに、そしていまここに、ヨハネと同じ「主の日の礼拝」に連なっている私たち一人びとりにも、宣べ伝えられているのではないでしょうか。その御声こそ、十字架と復活の主イエス・キリストの御声です。使徒ヨハネにとっては懐かしい主の御声であったに違いありません。そしてそれは、いまここに連なっている私たち全ての者を永遠の御国の民とする福音の調べなのです。

 

どうぞ続く11節をご覧ください。「(11)その声はこう言った、「あなたが見ていることを書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒア、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい」。十字架と復活の主イエス・キリストは、いま使徒ヨハネに「あなたが見ていることを書きものにしなさい」とお告げになります。私たちは「主の日」に安息日の主であられる十字架と復活の主イエス・キリストにお目にかかっているのです。主はいま私たちのただ中に現臨しておられるのです。まさにその、十字架と復活の主イエス・キリストにお目にかかった恵みの出来事を「書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒア、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい」と主みずから使徒ヨハネにお告げになるのです。そのようにして記された「書きもの」こそこのヨハネ黙示録なのです。

 

 このヨハネ黙示録が書き送られた七つの教会はいずれも、当時のローマ帝国アジア州にあって、激しい迫害の嵐にさらされていました。大きな苦しみの中にあった諸教会でした。まさにその、大きな苦しみの渦中にありました七つの教会に向けて、救いの福音の御言葉が、トランペットのような大きな声で宣べ伝えられるのです。それこそ一切の誤魔化しが通用しない(私たち人間の中に根拠を持たない)神からの救いの音信です。苦しみと混乱の中にあった諸教会に、そこに連なる全てのキリスト者たちに、祝福と慰めと力と導きを与える神の言葉として、このヨハネ黙示録が書き記されました。そしていまここに連なっている私たち一人びとりにも、同じようにこの「主の日」に、まさにこの礼拝において、この救いの福音の御言葉が宣べ伝えられているのです。だから私たちは「御言三昧・只管礼拝」の姿勢を些かも崩しません。神の御言葉に堅く立ち続けます。そして来たりたもう主を待ち望みつつ、待ちつつ急ぎつつ、この歴史の中を、御国の民として、祈りをもって、主と共に、主の祝福と導きのもと、歩み続けて参りたいと思います。祈りましょう。