説 教 ミカ書5章1−2節 ヨハネ黙示録1章9節
「イエスの苦難と御国と忍耐」ヨハネ黙示録講解〔6〕
2024・10・06(説教24402087)
「(9)あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた」。今朝のこの御言葉は短いながらも、とても大切な音信を私たちに伝えているものです。まず私たちが心に留めたいのはこの9節に「イエスの苦難と御国と忍耐」という言葉があることです。しかもこの黙示録の著者である使徒ヨハネは、その「イエスの苦難と御国と忍耐」に共にあずかる者として「パトモスという島」にいてこの黙示録を書いたと証言しているわけです。ちなみにパトモス島はエーゲ海にある面積34㎢人口は3280人の島でして、今日「神学者聖ヨハネ修道院と黙示録の洞窟を含むパトモス島の歴史地区」という名目でユネスコの世界遺産に登録されています。
さて、そこで「イエスの苦難と御国と忍耐」という大切な御言葉をご一緒に顧みて参りましょう。まず「イエスの苦難」とあることです。これはもちろん、私たちの、そして全世界の罪の赦しと救いのために、神の御子イエス・キリストがあのゴルゴタの丘で生命を献げて下さった、十字架の御苦しみと死の出来事をさしています。永遠にして聖なる神が、天地万物の創造主なる神が、私たちの罪の贖いと赦しと救いのために、十字架上に血を流して生命を献げ尽くし、私たちの、そして全世界の救いを成し遂げて下さったのです。ですから「イエスの苦難」とは、御子イエスによる永遠の救いの御業であります。そして、その救いには主イエスの十字架の血という実体(保障)があるのです。つまり、キリストの十字架による救いのみが、私たちが受けるべきたしかな唯一の救いなのです。
先日、私の車の前を「サスティナブルな人」という、ちょっと意味不明な標語を掲げた小型トラックが走っていまして、妻が「あれはなんて書いてあるの?」と訊くものですから「たぶん、継続可能な人、という意味だと思うよ」と答えたわけでありますけれども(sustainable は継続可能とか、持続可能という意味ですから)、しかし考えてみますと、私たちの身の回りにはサスティナブルな出来事というのは本当に少ないと思うのです。時代の変化、時の移り変わりとともに、様々なことが恐ろしい勢いで変化していってしまう、そういう世界に私たちは生きているわけです。そのような世界、ひいては私たちの人生において、神の御子・主イエス・キリストが成し遂げて下さった十字架による永遠の救いの出来事、ただこれだけが真の意味でサスティナブルな出来事であり、サスティナブルな救いなのではないでしょうか。
次に、使徒ヨハネは、自分が「イエスの御国」に共にあずかる者とされてい恵みを語っています。この「御国」という字は「神の恵みの永遠のご支配」という意味です。ギリシヤ語で申しますとバシレイアです。それは単なる国(国家)のことではなく、恵みによる永遠のご支配を意味する言葉です。十字架において永遠の唯一の救いの御業を継続可能な唯一の救いとして成し遂げて下さった主イエス・キリストは、復活と高挙(父なる神のみもとに上げられ、神の右に座したもうこと)によって、聖霊によって神の恵みによる永遠のご支配を、私たち全ての者に現わして下さったのです。このことをイギリスの神学者ジョン・オーマン(John Oman)は“Vision and Authority”(ビジョンと神の権威)という本の中でこう語っています「永遠の御国の権威(神の恵みの権威)のみが永続する唯一の権威である。そしてその権威は、私たちをいかなる強制力によっても支配せず、ただ救いの恵みによって統治するものであり、ただそれだけが歴史を超えて継続する唯一の権威である」。
最後に「(イエスの)忍耐」という言葉が出てきます。この忍耐という言葉は、実は私たちの教会(改革長老教会)にとってとても大切な言葉です。と申しますのは、皆さんも一度ぐらいはお聞きになったことがあるかと思いますが、私たちの教会の特質をあらわす5つの項目があるのです。それは @人間の全的堕落(Total depravity)A神による無条件の選び(Unconditional election)B制限的贖罪(Limited atonement)C不可抗的恩寵(Irresistible grace)D聖徒の堅忍(Perseverance of the saints)です。それぞれの項目の頭文字をとってTULIPと言い表したりもします。そこで、特に私たちが注目したいのはDの「聖徒の堅忍=Perseverance of the saints」なのです。
今朝のこのヨハネ黙示録1章9節でも、英訳の聖書では「(イエスの)忍耐」にPerseveranceという言葉が用いられています。そこで、これはどういう意味の言葉かと申しますと、主イエス・キリストは、私たちを限りなく愛して、十字架による救いの御業を通して、私たちを御国の民として選んで下さったわけでありますが、その私たちを、主イエス・キリストは(ひと言で申しますなら)「絶対にお見捨てにならない」ということなのです。キリストの愛は真実なもの、つまり、歴史を超えてまで永遠に持続可能なものですから、その愛によって選ばれて御自身の御身体なる聖なる公同の教会に招いて下さった私たちのことを、主イエス・キリストは絶対にお見捨てにならないのです。まさにそのキリストの愛の持続可能性(sustainability)を今朝の御言葉では「(イエスの)忍耐=堅忍」と言い表しているのです。
そういたしますと、どういうことになるのでしょうか?。たとえ私たちが主イエスを見捨てようとも、主イエスは私たちを決してお見捨てにならない、ということになるのではないでしょうか。改めてそういうことを心に銘記いたしますならば、それは大変な恩寵である、救いの恵みそのものである、ということがわかるのではないでしょうか。なによりも、これをパトモス島で書いている使徒ヨハネも含めて、主イエスの弟子たちがその経験を持っていました。主イエスがゲツセマネの園で、イスカリオテのユダの手引きによってやってきた捕吏たちによって捕らえられ、大祭司カヤパの邸宅で不当な裁判が行われたとき、十二弟子たちはみな一人も残らず主イエスを見捨てて逃げ去ってしまったのでした。使徒ヨハネも例外ではなかったのです。私たちはみな、わが身可愛さのあまり、おのれの身のみを守ろうとして、主イエスを見捨てて逃げてしまう存在にすぎないのです。
ペテロただ一人が、大祭司カヤパの邸宅の中庭にうまく潜入して、そ知らぬふりをして大祭司の下役たちと一緒に焚火にあたっていました。ところが、焚火によってペテロの顔が明るく照らし出され、言葉遣いによってガリラヤ出身だということまでバレてしまうわけです。お前はあのナザレ人イエスの弟子の一人だろうと詰問されまして、、とうとうペテロは3度も「いや、私はあの人(ナザレのイエス)とは何の関係もない」と言い張った。神に誓ってまでそう主張したのでした。そのペテロを、主イエスはお見捨てになられましたでしょうか?。「ペテロよ、よくもお前は私を裏切ったな!」と御怒りを向けられたでしょうか?。そうではありませんでした。3度も主イエスを裏切り、見捨て、縁を切ったペテロを、復活の主イエス・キリストは「ペテロよ、あなたは私に従ってきなさい。そして、私の群れを養いなさい」と語りたもうて、使徒としてお召しになったのです。
私たちも、同じ恵みを戴いているのではないでしょうか。だからこそ、いまここにこうして、聖徒の群れであるところの聖なる公同の使徒的なる教会に連ならしめられ、キリストの御身体なる教会の枝とならせて戴いているのではないでしょうか。まさに今ここに集うている私たち一人びとりが「(イエスの)忍耐=Perseverance of the saints」に、使徒ヨハネと共に豊かに与かる者たちとならせて戴いているのです。どうぞ改めて心に銘記いたしましょう。主イエス・キリストは絶対に私たちをお見捨てにならないのです。私たちを最後まで愛し、御自身の祝福の内を歩むものとなして下さり、ついには贖われ祝福された主の聖徒らと共に、永遠の御国に連なる幸いと喜びを、いまここにおいて私たちは主の御手から豊かに戴いている。このことを感謝し、讃美の歌声をもって主を讃美しつつ、新しい一週間の旅路へと、喜び勇んで出発して参りたいと思います。祈りましょう。