説 教 出エジプト記3章13−14節 ヨハネ黙示録1章7−8節
「我はアルパなり、オメガなり」ヨハネ黙示録講解〔5〕
2024・09・29(説教24392086)
「(7)見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、かれを刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。(8)今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、『わたしはアルパであり、オメガである』」。今日のこの御言葉はまことに驚くべき響きに満ちています。まず7節に「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、かれを刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう」とあることに心を留めましょう。
この「雲に乗って来られる」というのは、十字架と復活の主イエス・キリストが、全世界に救いを完成して下さるために、再び神の栄光をもって歴史の中に現れて下さる「主の再臨の日」の様子を描いています。その栄光の「主の日」に「すべての人の目、ことに、かれを刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう」と言われているのです。それは、主イエス・キリストを十字架にかけた全ての人たちのことです。言い換えるなら、私たちもその罪を少しも免れていません。しかし、その「彼を(十字架に釘で)刺しとおした者たち」に復讐するために主は来られるのではないのです。そうではなくて「かれを刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう」と言われているのです。
この「仰ぎ見る」とは「信じ、告白する」という意味の言葉です。つまり、十字架と復活の主イエス・キリストは、全ての人を救いへと導いて下さるために、昔も、今も、将来も、やがて来たるべき「主の日」にも、救いの御業を行って下さるおかたであることがはっきりと示されているわけです。だから「地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆く」のです。この「嘆く」とは深悔い改めの姿です。悔改めとは真の神に立ち帰ることです。だからルターが95箇条の提題において語っているように、私たちキリスト者の全生涯が「絶えざる悔改めの連続」であらねばなりません。すなわち、私たちキリスト者の全生涯は、日ごとに新たに神に向かって己を投げかける日々の連続なのです。
だから、御言葉は必然的に「アァメン」という信仰の答えになせざるをえません。「しかり、アァメン。(8)今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、『わたしはアルパであり、オメガである』」。今朝はこの「我はアルパなり、オメガなり」という御言葉に集中して、ご一緒に福音を聴いて参りたいと思います。私の大好きな奈良の東大寺の大仏殿の入口に、有名な南大門(かつては北大門や西大門もありました。現在、奈良時代の創建当時のまま残っているのは北東にある転害門だけです)という大きな門があります。ご存じのかたも多いと思いますが、その門の両側には2体の金剛力士像が立っております。金剛力士像という名ではありますが、これはもちろん仏法を守護すると言われている仁王像であります。高さ8メートルもある巨大な木像で、鎌倉時代の仏師・運慶が作ったものです。1283年(弘安6年)の作です。向かって左には口を開いた「唖形」右には口を閉じた「吽形」の仁王が立っています。そこで、この唖形とは始まりを意味し、吽形は終わりを意味すると言われています。サンスクリット語のアルファベットの、始まりと終わりの文字を意味しているからです。
それなら、それと同じことが、同じように見えることが、今朝の8節でも言われているのでありましょうか?。「わたしはアルパであり、オメガである」。たしかにこの「アルパ」というのはギリシヤ語の最初の文字であり「オメガ」というのは最後の文字です。だからこれをもって「主は最初と終わりを支配したもうかたである」という意味に受け取ることもできなくはないのです。しかし、もちろん、それだけではないのです。なぜなら今朝の8節をよく見ますと、そこには「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる」と書かれているからです。書かれているというよりも、使徒ヨハネが聖霊によって受け取った神からのメッセージ(イエス・キリストの黙示=福音そのもの)がここに告げられているわけです。
十字架と復活によって、私たち全ての者たちと歴史全体に救いと永遠の平和を与えて下さる主イエス・キリストは「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神」なのです。讃美歌にもたとえば546番などに「昔いまし、今いまし、永遠にいます、主をたたえん」と歌われていますが、その歌詞はまさにヨハネ黙示録のここに基づいています。(私も祈りのたびに最後にこの頌栄を唱えることを皆さんはご存じです)。つまり、主イエス・キリストは、過去、現在、そして未来、この3つの時を永遠に救いの権威(恵み)をもって支配していて下さるおかたであると告白されているのです。主イエス・キリストが私たちに与えて下さる救いには時間的な隙がないのです。タイムギャップがないのです。過去も、現在も、将来も、その全てにおいて私たちは救い主なる主イエス・キリストにお会いすることができるからです。
私はつい一昨日、とても珍しい本を入手しました。それは土井虎賀寿(Doi Torakazu)という哲学者が70年ほど前に書いた「時間と永遠」という本です。私の恩師であった北森嘉蔵先生の京大時代の同級生で、西田幾多郎の弟子にあたる人です。この本の中で土井さんはカール・バルトの神学にふれて、こういうことを語っています「『神は天上にいまし、汝は地上に住む』この神がこの人間にどのような関係をもつか、――これが私にとって聖書の主題であり、同時に哲学の総計である。哲学者たちは、人間の認識のこの危機を根源と呼んでいる。聖書は、この十字路にイエス・キリストを見出す。私は、バルト神学のこの基本線に従って、私の思索を展開してゆきたいと念ずる。しかし、私は哲学者としての道を辿るほかないのであって、神学者であることはできない。従って、私の念願は、最初から破綻の約束を含む不幸な望みであるかも知れぬ。同時に神学者であり、哲学者でありうるバルトの道は、恩寵に祝福された最上の道に相違ない。私もまた、何とかして同じ道へ、少なくとも同じ方向へ、辿りつきたいと願っている」。
私はこれを読んで深く考えさせられました。そして同時に、私たちはどのような道を歩む者たちとされているかということを改めて考えました。それこそまさに土井さんが語っている「恩寵に祝福された最上の道」なのではないでしょうか。私は北森先生から、土井さんは北森先生が牧師をされていた東京の千歳船橋教会に、だいぶ長いあいだ通っていたということを聞いたことがあります。しかし土井さんはついに洗礼を受けることはなかったそうで、そのことを北森先生はとても残念に思うとも語っておられました。どんなに厳密な思索に裏打ちされていたとしても、哲学者の道はついに混乱と絶望の道でしかありえないのです。私たち人間にとっていちばん大切なことは、先ほども申しましたけれども、真の神に己を投げかけて生きる、悔改めの連続である信仰の日々ではないでしょうか。
それこそ、十字架と復活の主イエス・キリストみずから、私たち全ての者に「我はアルパなり、オメガなり」とはっきりと告げていて下さるのです。過去、現在、未来、この3つの全ての時制(テンス)において、私たちは十字架と復活の主イエス・キリストにお会いできるのです。その恵みを、その祝福と喜びと幸いを、使徒ヨハネは聖霊によって、この「ヨハネ黙示録」に書きとどめ、全世界の教会に、そして全世界のまだ真の神を知らない人々に、宣べ伝えているのです。いま、十字架の主イエス・キリストは、全ての人々にはっきりと語っていて下さる。「我はアルパなり、オメガなり」と。だから、あなたは安心しなさい。勇気を出しなさい。あなたを支配しているものは、罪と死の支配は、過去においても、現在においても、将来においても、もはやあなたの主であることはできなくなったからだ。
あなたの主はただ一人、あなたのために十字架におかかりになり、釘で刺し通されて、血を流して、死んで下さり、あなたの罪の贖いを成し遂げて下さった、十字架と復活の主イエス・キリストのみである。このかたのみが、過去、現在、将来を、支配して下さる唯一の真の神であられる。だから、あなたの救いは確かなものだ。あなたは永遠に、死を超えてまでも、主イエス・キリストと共にある祝福された生命を与えられている。だから、勇気を出しなさい。慰められてありなさい。そのようにいま、十字架と復活の主イエス・キリストは、私たち全ての者に力強く語り告げていて下さるのです。祈りましょう。