説 教 歴代志上16章34−36節 ヨハネ黙示録1章4−6節
「御子イエスの血による救い」ヨハネ黙示録講解〔4〕
2024・09・22(説教24382085)
「(4)ヨハネからアジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかたから、また、その御座の前にある七つの霊から、(5)また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。私たちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、(6)わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン」。
先週の主日礼拝に引き続いて、今日も再びヨハネ黙示録1章4節から6節の御言葉を与えられました。今日は特にその5節の後半から6節にかけての御言葉に集中してご一緒に福音を聴いて参りたいと思います。「私たちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、(6)わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン」これは私たちの葉山教会で月に一度ずつ必ず読まれる礼拝招詞の御言葉でもあります。文語訳ではこうなります「願くは我らを愛し、その御血もて我らを罪より解放ち、われらを其の父なる神のために国民となし祭司となし給える者に、世々限りなく栄光と権力(ちから)とあらんことを、アァメン」。
まず、小さなことですが大切なことを最初に申し上げたいと思います。最後のアーメンという言葉が「アァメン」という表記になっていることに皆さんもお気づきだろうと思います。これは口語訳でも文語訳でも同じです。聖書の他の箇所でも同じです。実は私たちが祈りの最後にも必ず言う言葉である「アァメン」の原文はヘブライ語のエィメトという言葉でして、これは本来は「神の真実=私たちに対する救いの御業の確かさ」という意味です。そのエィメトがギリシヤ語表記では「アァメン」になるのです。英語などではむしろAmenはエイメンと発音されます。ドイツ語ではアメンになります。いずれにせよ、ヘブライ語原文のエィメトの発音をできるだけ再現しようとした結果が「アァメン」という表記になったのです。(ちなみに、ギリシヤ語ではアメーンといいます。長音符はAではなくMの字につくわけです)。
さて、そこで今朝の御言葉「私たちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、(6)わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように」に心を留めて参りましょう。ここでなんと申しましても私たちが注目したいのは「その血によってわたしたちを罪から解放し」という言葉です。文語訳で申しますなら「その御血もて我らを罪より解放ち」です。これはヨハネ福音書3章16節やローマ書3章22節などと共に「福音の本質」を私たちに生き生きと伝えている御言葉であると言えるでしょう。まず「(主イエス・キリストは)私たちを愛し」とあります。私たちに対するキリストの愛(神の愛)とは、御自身の全てを献げて私たちの罪の贖いを成し遂げて下さったことに現わされているのです。それならば、この神の愛(キリストの愛)には具体性があるのです。実体性があるのです。それが「その血によってわたしたちを罪から解放」して下さったという事実です。十字架の出来事の真実性です。すなわち十字架というエィメト(アァメン)こそ神の愛の実体である、内容であると告げられているのです。
ところで、皆さんは十字架という処刑方法について、どれだけご存じでしょうか?。ドイツの新約聖書神学者マルティン・ヘンゲル(Martin Hengel)はその著書「十字架」においてこういうことを書いています。「2000年前の古代イスラエルにおいて、たとえどんなに親しい人間関係であっても、それを一瞬にして崩壊させてしまうおぞましい言葉があった。それは『おまえなど十字架にかかって死んでしまえ』という言葉であった。十字架という言葉はそれ自体、当時のユダヤ社会においてこの上なく恐ろしい呪いの言葉であった」。例えて申しますなら、映画「男はつらいよ」の寅さんの名文句ではありませんが「それを言っちゃあおしまいよ」という言葉、しかも「たとえどんなに親しい人間関係であっても、それを一瞬にして崩壊させてしまうおぞましい言葉」こそ「十字架」という言葉であったとヘンゲルは語っているわけです。
十字架刑は古代ローマ帝国におけるもっとも残酷な処刑方法でした。私の友人に医者がおりますが、その医者が言いますには、手のひらに太い釘を打ちますと手のひらの骨が砕けてしまうそうです。だから、実際の主イエスの十字架刑においては、手のひらではなくて手首の15センチぐらい下のところ、そこは骨が2本になっている、その2本の骨の間に釘を打ったに違いないと申しておりました。私もそれでいろいろと調べたのですが、ある考古学の本に、トルコで実際に腕の骨に(2本の骨の間に)釘を打たれた白骨死体が出土したという記録がありまして、ああ、主イエスの十字架もそのような方法であったのだろうなと改めて感じさせられた次第です。
ともあれ、十字架に釘付けられた人(犯罪者)は、2日ぐらい苦しみ抜いたのちに、出血多量と飢え渇きと絶望感のために死に至るということであったようです。しかし新約聖書の記録によりますと、主イエスは正午ごろに十字架につけられて午後3時ごろに「すべて事おわりぬ」と言って息を引き取られたと記されていますから、これは例外的に早く死が訪れたということになるでしょう。それはひとつには、ゴルゴタの丘で十字架にかけられる以前に、主イエスはローマの兵士たちによって激しく鞭で打たれています。その鞭打ちの際に既に多量に出血していらしたのではないでしょうか。だから3時間で死なれたのだと考えられるのです。
皆さんにも幾度かお話したことがありますが、カール・バルトが「教会教義学」(Kirchliche Dogmatik)を書いていたときにいつも机の前の壁にマティアス・グリューネヴァルトが描いた「イーゼンハイムの祭壇画」と呼ばれるキリスト磔刑画を眺めていた、これは有名な話ですが、そのイーゼンハイムの磔刑画に描かれた壮絶なキリストのお姿にも遥かにまさって、実際の主の十字架は恐ろしく、凄惨なものであったにちがいないのです。それならば、まさにこういうことが言えるのではないでしょうか、神は本来、痛みや苦しみから解放されている存在だからこそ神なのです。神は、死なない存在だからこそ神なのです。痛んだり、苦しんだり、死んだりするような存在を、私たちは「神」とは呼ばないわけであります。
それならば、主イエス・キリストの十字架における神の愛は、さきほどそれは具体性を持ち、実体性を持つ神の愛であると申しましたけれど。まさにその具体性、実体性こそは、今朝のヨハネ黙示録1章5節が告げているように「その血によってわたしたちを罪から解放」して下さった、そのキリストの御血こそが神の愛の具体性なのであります。キリストの血こそが神の愛の実体性なのです。
聖書が(特にヨハネ黙示録が)私たちに告げている真の神は、痛みも悩みも死もないいわゆるアリストテレスの言う「不動の神」などではなく、まさに私たちの罪を贖い、私たちに新しい生命を与え、私たちを救い、永遠の御国に招き入れて下さるために、ゴルゴタの十字架において、ずたずたになって傷つき、鞭打たれ、釘づけられて、血みどろになって、御自身の生命を与え尽くして下さった神なのです。それこそヘンゲルが逆説的に語っていることですが、いかなる人間関係といえども一瞬で崩壊させてしまう、それほどの呪いを主イエス・キリストは、私たちのために、私たちの身代わりになって、身に引き受けて下さったのです。
だからこそ今朝の御言葉は私たちにこのように語り告げているのです。「私たちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、(6)わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン」。まことに、ここにこそ、十字架の主イエス・キリストにのみ、私たち全ての者の救いと生命があります。そして全世界のと歴史全体の救いがあります。だからこそ私たちは使徒ヨハネと共にいま、声高く告白し「アァメン」と唱えます。「私たちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、(6)わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン」。祈りましょう。