説     教             イザヤ書414節  ヨハネ黙示録146

               「七つの教会への祝福」 ヨハネ黙示録講解説教〔3

                   2024・09・15(説教24372084)

 

(4)ヨハネからアジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかたから、また、その御座の前にある七つの霊から、(5)また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。私たちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、(6)わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン」。

 

 もし私たちが「伝道とは何か」と問われたなら、どのように答えるでしょうか?。いろいろな答えかたがあるに違いありません。信者の数をふやすことが伝道である。できるだけ多くの人々に洗礼を授けることが伝道である。この日本をキリスト教の国にすることが伝道である。そのいずれも間違いではないかもしれない。しかしもし、私が「伝道とは何か」と問われたならこう答えます。「伝道とは、主イエス・キリストの御身体なる真の教会を形成することである」と。

 

 昔、明治の初期から昭和にかけて活躍した伝道者に金森通倫(Paul Kanamori)という人がいました。熊本バンドの一人であり、新島襄の後を受けて同志社の校長にもなった人です。いま総裁選に出馬している石破茂さんの曽祖父にあたる人です。牧師としてはおもに岡山県を中心に伝道をしました。エバンジェリスト(大衆伝道者)としての働きを重視した人で、その生涯で20000人以上に洗礼を授けたと言われています。しかし、そのあとに何が残ったかと申しますと、ほとんどなにも残っていないのです。金森通倫は日本中で伝道集会を盛んに開いて20000人以上に洗礼を授けましたけれども、主イエス・キリストの御身体なる真の教会を形成することはしませんでした。いわば産みっぱなしの伝道で、育てる母(教会)がいなかった。だから彼から洗礼を受けた人々はいつしか消え去ってしまったのです。

 

 宗教改革者カルヴァンは「私たちは神を父として持つためには、教会を母として持たなければならない」と言いました。「父なる神、母なる教会=Pater Deus, Mater Ecclesia」はカルヴァンの教会論の骨格をなすものです。そしてまさに、その「母なる教会」こそ「主イエス・キリストの御身体なる真の教会=聖なる公同の使徒的なる教会」にほかなりません。まさにそのような真の教会形成のためにこそ、牧師たる伝道者は、そして長老会もまた、数限りない牧会上の苦闘を経験するのではないでしょうか。すらすらと多くの人に洗礼を授けて「はいあなたは救われました」と言うだけなら簡単なことなのです。(いま東京のあるカトリック教会の司祭である晴佐久神父という人が、まさにそのような大衆伝道的な洗礼の授けかたをしているそうですが、私は大きな疑問を抱かざるをえません)

 

 なによりも、今朝の御言葉にどのようにございましたか?。改めて今朝の4節から6節までをお読みいたしましょう。「(4) ヨハネからアジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかたから、また、その御座の前にある七つの霊から、(5)また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。私たちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、(6)わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力咎あるように、アァメン」。

 

 まずここに「ヨハネからアジヤにある七つの教会へ」とございます。このアジヤというのは古代ローマ帝国におけるアジヤ州のことでして、現在の位置で申しますならトルコ南西部からイスラエルにかけての広大な地域をさしています。私は35年前にエジプトのスエズ運河を地下トンネルでくぐったことがあります。そのとき、トンネルを出たところに大きな看板がありまして、そこには大きな文字で“Welcome to Asia”と書いてありました。スエズ運河を挟んで西側はアフリカ、東側はアジアという理解なのです。まさにその古代ローマ帝国におけるアジヤ州の版図が歴史と共にだんだん東側に広がっていって、ついには1万キロも離れた日本までアジアと呼ばれるようになったわけであります。

 

 ともあれ、そのアジヤ州にある七つの教会、111節によれば、それは「エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤ」という七つの街にあった教会のことなのですが、その全てがローマ帝国による(歴代のローマ皇帝による)激しい迫害にさらされていたわけであります。主イエス・キリストを神の子・救い主と告白する信仰のゆえに、多くの信徒たちは家を焼かれ、職を奪われ、家族を引き離され、あるいは拷問にかけられ、殺されるなどしました。非常に多くの苦しみの中で伝道活動が繰り広げられていたわけです。

 

 そのような、大きな苦難の中にあって「主イエス・キリストの御身体なる真の教会=聖なる公同の使徒的なる教会」を形成するために、そして真の「聖徒の交わり」としての教会が形作られていくために、ヨハネは一意専心宣べ伝えざるをえませんでした。それは今朝の5節の前半部分の御言葉です。「忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように」。これこそは老使徒ヨハネがギリシヤのパトモス島から「アジヤにある七つの教会」に向けて送った祝福の言葉です。

 

まず第一に、主イエス・キリストは「忠実な証人」です。父なる神の聖なる御心、全世界に対する救いの御心である福音を忠実に(つまり預言の言葉として)全世界に宣べ伝えるためにベツレヘムの馬小屋に人としてお生まれになり、そしてその同じ主イエス・キリストが聖霊によって天使と共に老使徒ヨハネに、その福音の御言葉をもって「アジヤにある七つの教会」を力づけ、慰め、導き、教えるようにと、救いの権威をもって働いておいでになるのです。第二に、主イエス・キリストは「死人の中から最初に生れた者」です。いわば主は私たちの救いのために「復活の初穂」となって下さったのです。「今からのち、主に結ばれて死ぬ死人は幸いである」(黙示録1413)。主に結ばれて死ぬこと(主に贖われて死ぬこと)は新しい永遠の生命の始まりだからです。

 

 そして最後に、第三に、主イエス・キリストは「地上の諸王の支配者」であられます。ヘンデルのメサイアのハレルヤコーラスにも“King of King, Lord of Lord=王の王、主の主”と歌われています。この世界の王の王、主の主たる唯一の神の子・救い主こそ、主イエス・キリストであると告白されているのです。だから私たちは、ただこの主イエス・キリストにのみいっさいの栄光を献げたてまつります。古代ローマ帝国においてキリスト教会が迫害された最も大きな理由は、教会が(つまりキリスト者たちが)主イエス・キリストのみを唯一の「主」と呼んだからでした。私たち現代のキリスト者たちも、まさにこの信仰告白において、いつも揺るぎなき健やかな群れであり続けなければなりません。

 

 最後に、老使徒ヨハネはアジヤの七つの教会に向けて「恵みと平安とが、あなたがたにあるように」と語っています。よく言われるように「恵み」とはギリシヤ人の祝福の言葉であり「平安」とはユダヤ人の祝福の言葉である、だから「恵みと平安」という祝福においては、ヘレニズムとヘブライズムという、ヨーロッパ文明を形成している二大潮流が祝福されているのだと、そのようによく言われるわけですけれども、それ以上に、この「恵みと平安」という祝福の言葉は、同じくアジアの東の果てにある私たち葉山教会に向けて送られているものではないでしょうか。まさに私たちのこの葉山教会に向けて老使徒ヨハネは「恵みと平安とが、あなたがたにあるように」と語り告げている、祝福を書き送っているのです。

 

 私たちの教会もまた、この現代日本にありまして、ローマ帝国アジヤ州の七つの教会と同様に、多くの苦闘を経験せざるをえないのではないでしょうか。それこそまさに、この人間の功績中心主義の現代社会のただ中に、ただ主イエス・キリストの御身体なる真の教会=聖なる公同の使徒的なる教会を形成せんとする苦闘の数々であります。この葉山の救いのため、この日本の救いのために、このピスガ台の地に真の「母なる教会」を形成せんとする苦闘の数々です。どうか私たちはその主にある伝道のよき戦いを最後まで戦い抜く神の僕たちであり続けたいと思います。来たりたもう主を待ち望みつつ、真の伝道のわざにいそしみ励んでゆく群れであり続けたいと思います。私たちに与えられた祝福「主の恵みと平安」はいつまでも変わることはないからです。祈りましょう。