説     教             エレミヤ書177節  ヨハネ黙示録123

                  「時近ければ」 ヨハネ黙示録講解説教〔2

                   2024・09・08(説教24362083)

 

(2)ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした。(3)この預言の言葉を朗読するf者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである」。私たちは先週からヨハネ黙示録の連続講解説教を通して福音の御言葉を聴いております。そこで先週は1節のみで今週も2節と3節というスローテンポでこの講解説教は進んでいます。先日あるかたと電話でお話しております中で「私のことだから(このヨハネ黙示録の連続講解説教は)2年あるいは3年ぐらいなんて申したけれど5年ぐらいかかるかもしれない」と申しましたら、その相手のかたも「私もそう思います」とおっしゃっていました。

 

もしかしたらそうなるかもしれません。ともあれ、全ては神の導きのままに進んでゆきたいと思っています。特にいまはまだこのヨハネ黙示録の出だしの部分でありますので、ことさら意図的に一節一節を丁寧にお話しする必要があるように感じています。それは今朝の2節の御言葉を見るとよくわかるのではないでしょうか。「(2)ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした」とあることです。この「ヨハネ」とはもちろん、主イエス・キリストの十二弟子の一人であった使徒ヨハネのことです。この「ヨハネ黙示録」を書いたとき既にヨハネは齢90歳を超えていました。ギリシヤのパトモス島でこれを書いたわけですが、その90歳を超えたヨハネが「ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした」と語っている。このことにまず、私たちは深く心を打たれるのです。

 

 まず、自分のことを単純に「ヨハネは」と呼び捨てにしておりますのは、ヨハネという人が徹底的に自分を虚しくして神の僕、キリストの弟子になりきっていたからです。私はいま折に触れて、かつての昭和天皇の侍従であった入江相政という人の日記を読んでいるのですが、天皇陛下の前で自分のことを語るときには「私は」とは言わない。「入江は」と自分の名を呼び捨てにするのです。それと似たことがここでも言えると思います。主イエス・キリストの御前ではヨハネは徹底的に一人の僕ヨハネになりきっているのです。そしてその僕たる働きの内容は何であったかと申しますと「神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした」ことです。

 

このあたりの原文のギリシヤ語はずいぶん混乱しています。つたないギリシヤ語だと言ってよい。このヨハネ黙示録は使徒ヨハネの書いたものではないということを主張する聖書学者たちは「こんなに拙いギリシヤ語をヨハネが書くはずはない」と言います。しかしこの一見つたなく見えるこのギリシヤ語こそ、齢90歳を超えた老使徒ヨハネの生の声をそのまま私たちに伝えているのではないでしょうか。千利休という人は拙くとも一所懸命に亭主を務めている人の所作を見て「彼こそは天下第一の茶人である」と言ったそうです。それは自分が無になっているからです。拙さの中に限りない謙虚さがあるからです。そのような老使徒ヨハネのことを同時代のエレナイオスという人は「ヨハネは徹底的に神の器になり切った人である」と語っています。私たちも自らを省みなければなりません。私たちはいつも神の器となっているでしょうか?。むしろ、拙さの対極にある自己主張に生き、御言葉から離れた生活をしていることはないでしょうか。

 

 使徒ヨハネの生涯は徹頭徹尾「神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした」人生でした。ここには「証しをする」という言葉が2度も続けて出てきます。文法的に見るならまことに拙いギリシヤ語であり、もしこれが神学校のギリシヤ語の試験に対する解答なら落第するであろう拙さであります。実はこの「証しをする」という元々のギリシヤ語はマルトゥリアという言葉でして、殉教者の語源にもなった言葉なのです。そして何よりもこのヨハネ黙示録においては2つの意味を持っています。第一にこのマルトゥリアとは「礼拝における神の言葉の説教」を意味し、第二に「神の言葉に根差した新しい自由の生活」を意味するのです。十字架の主イエス・キリストの贖いの御業によって全ての罪を赦され義とされ御国の民とされた私たちキリスト者は、ヨハネと同じように「神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした」人生を生きる者たちとされているのではないでしょうか。

 

 パスカルという人はある手紙の中で、初代教会のキリスト者たちと現代の(とは言ってもパスカルの時代は300年前ですが)キリスト者たちの決定的な違いは「真の悔い改めがあるか否か」であると語っています。そしてまさに「真の悔い改めがあったゆえにこそ、初代教会は本当の意味で“聖徒の交わり”であった」と語っています。これはいささか厳しく聞こえるかもしれませんが、逆に申しますなら、私たち現代のキリスト者たちが決定的に失ってしまったもの、それは「真の悔い改め」に基づく喜びと自由の生活なのではないでしょうか。パスカルの言葉で申しますなら、私たち現代のキリスト者は「教会とこの世の間を器用かつ狡猾に行き来しているだけ」だと言うのです。主イエスは「あなたがたは神と富とに兼ね仕えることはできない」とおっしゃいましたが、私たちはそれこそ器用に狡猾に、神と富とに兼ね仕える生活をしているだけのことはないでしょうか。

 

 もしそうならば、まさにそのような私たち現代の(器用で狡猾な)キリスト者たちに、今朝の御言葉である13節はこのように語り告げているのです。「(3)この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである」。先週の長老会において、礼拝における聖書朗読(私たちの葉山教会では昔から拝読と呼んできましたが)はとても大事だという話し合いになりました。事実として、初代教会においては聖書朗読者はラテン語で「レクトール」と申しましてとても重要な務めだと考えられていたのです。それはまさに今朝のこの3節にありますように、聖書朗読者は「この預言の言葉を朗読する者」だからです。「預言」という字は「神から預かった御言葉を宣べ伝える」という意味です。ですからその本質は神に仕えることです。神の御言葉の器になりきることです。その意味では説教者たる牧師の務めと同じだと言えるのです。

 

 つまり、聖書朗読と説教とによって宣べ伝えられた「証しの言」すなわち「預言の言」は神の言葉なのです。それこそルターの同労者でもあった宗教改革者ブリンガーが語っておりますように「神の言葉の説教はすなわち神の言葉である」のです。それは十字架と復活によって私たち全ての者の唯一永遠の救いを成し遂げて下さった御子イエス・キリストを証しする言葉だからです。それはキリストの御身体なる聖なる公同の使徒的な教会を建て、主が再び来たりたもう日を待ち望みつつ、待ちつつ急ぎつつ、歴史の中を永遠の御国をめざして歩んでゆく神の民を導く御言葉なのです。だからこそヨハネは続いて3節にこう語っているのです。「これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである」。

 

ここに「時が近づいているからである」とありますが、これはもともとのギリシヤ語を直訳するなら「時が迫っている」です。ですから昨年出版された共同訳聖書では「時が迫っているからである」と訳されています。この「時」とは「主イエス・キリストの時」です。十字架と復活によって私たち全ての者の救いを成し遂げて下さった主イエス・キリストが、歴史と世界の全ての救いの完成のために再び歴史の中に来て下さるその「時」のことです。だから初代教会のキリスト者たちは「マラナ・タ=主よ来たりませ」という言葉を大切にしました。私たちも同じなのではないでしょうか。私たちもまた「マラナ・タ」という言葉を大切にせざるをえないのではないか。私たちがいまここで、教会とこの世の間を器用かつ狡猾に行き来する者たちであることを喜んで止めることができるのは「時が迫っている」からです。

 

言い換えるならば、私たちが主イエスの後を追いかけている延長線上に歴史の救いがあるのではなく、主イエスご自身が(しかも十字架と復活の主イエスご自身が)私たちを追い求めて救って下さる、その救いの事実の内にこそ歴史全体の救いが約束されているのです。だからヨハネは「時が迫っている」と語りました。喜びつつ、讃美を歌いつつ、私たちは来たりたもう主を待ち望む者たちとして生き続けて行こうではないか。