説     教              ダニエル書228節  ヨハネ黙示録11

                  「イエス・キリストの黙示」

                   2024・09・01(説教24352082)

 

(1)イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである」。私たちは今日からヨハネ黙示録の連続講解説教を通して福音の御言葉をご一緒に聴いて参りたいと思います。ヨハネ黙示録は西暦96年ごろに使徒ヨハネによって書かれたものと考えられています。まず、このヨハネ黙示録の最初の11節をご覧になりますと「イエス・キリストの黙示」という言葉が記されています。私たちは「ヨハネの黙示録」と言いますと、それはキリストの弟子の一人であったヨハネがこの世界に警告を与えるために伝えた黙示録なんだろう、つまり、この文書は「キリストの弟子であったヨハネが私たちに伝えようとしている黙示録」なのだろうと、そのように考えてしまうわけですが、そうではないのです。

 

 新約聖書の最後にあるこの文書は「イエス・キリストの黙示」なのです。十字架において私たちの罪の贖いと全世界の救いを成し遂げて下さった主イエス・キリストが、復活なさって天に昇られ、父なる神の右に座しておられる。まさにその「父なる神の右に座したもう」復活の主イエス・キリストが、私たちに語っておられる、与えておられる、福音の御言葉こそがこの「ヨハネの黙示録」の内容なのです。ですから「ヨハネの黙示録」どありますけれども、これはあくまでも「イエス・キリストの黙示」をヨハネが器(御言葉の役者)となって伝えられたものでして、その主体(主語)はどこまでも復活の主イエス・キリスト御自身なのです。このことをまず(これはとても大切なことですから)私たちの心にしっかりと受け止めたいと思います。

 

 そこで私たちは1節の続きの御言葉を心に留めましょう。「この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである」。ここには驚くべきことが記されているのです。主なる神御自身が、御子なるイエス・キリストに、御自身の聖なる福音の御言葉を与えたもうた、まさにその福音の御言葉を、御子なる主イエス・キリストが、御使すなわち天使を通して僕なるヨハネにお伝えになった、その黙示こそがこのヨハネの黙示録の内容であるというのです。つまり@父なる神、A御子なる主イエス・キリスト、B天使、C使徒ヨハネ、という4つの段階を経てこの「ヨハネの黙示録」が私たちに宣べ伝えられているのだということです。

 

 そこで、私たちがすぐに思い浮かべますのは、旧約聖書イザヤ書527節の御言葉ではないでしょうか。「よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救を告げ、シオンに向かって『あなたの神は王となられた』と言う者の足は山の上にあって、なんと麗しいことだろう」。時は紀元前7世紀、バビロン捕囚というイスラエル国家最大の壊滅的危機の中にありまして、預言者イザヤは全ての人々に『あなたの神は王となられた』と告げました。その意味は「真の神があなたの永遠の王になられたからには、あなたはなにも恐れる必要はない。あなたの救いと平和はいま実現しているのだ」ということです。

 

 まさにこの御言葉を、使徒パウロはローマ書1014節以下に引用してこのように語っています。「しかし、信じたことのない者をどうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。『ああ、麗しいかな。良きおとずれを告げる者の足は』と書いてあるとおりである」。ここで使徒パウロが私たちに明らかにしている「福音の伝達の段階」も4つなのです。すなわち私たちは、@神を信じているからこそ祈る者たちとされ、A御子イエス・キリストが宣べ伝えて下さった福音によって神を信じる者たちとされ、B天使(すなわち教会)によって宣べ伝えられた福音を聴いてイエス・キリストをわが主・救い主と信じる者たちとされ、そして最後にC御言葉の役者である聖職者を通して宣教の御業に連なる喜びと幸いを与えられている、者たちなのです。

 

 このように考えて参りますと、今朝の御言葉の意味がよくわかってくるのではないでしょうか。内村鑑三という人は「2つのJ」ということを申しました。2つのJとはなにかと申しますとすなわち“Jesus”と“Japan”です。この2つのJを念頭に置きつつ、内村鑑三はこのように申していますI for Japan, Japan for the World, the World for Christ, And All for God”(我は日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、そして全ては神のためなり)ここでも「〜のために」は4つです。そして大切なことは、その全てが最終的に神から出て、神に向かっている流れだということです。それと同じことがヨハネ黙示録にも言えるのです。ここにはたくさんの事柄が書かれていますけれども、その全ては神から出てキリストへ、そして天使を通してヨハネに伝えられ、ヨハネを通して私たちに伝えられた福音の御言葉なのです。つまり、福音の御言葉の全ては神から出て、全ての人々を神へと導く御言葉なのです。

 

 もともと「黙示録」と訳された言葉“ApocalypseἈποκάλυψις”は「啓示された神の言葉」という意味のギリシヤ語です。私たちは「黙示」と聞きますと、それはなにか秘密めいた言葉のように感じますがそうではないのです。それは「啓示された=開かれて示された神の言葉」なのです。ここでも私たちは先ほどの「福音伝達の4つの段階」を心に留めるべきでしょう。すなわち、まず第一に、私たちは御言葉の説教(礼拝において語られた神の言葉)を通して福音を聴く者たちとされています。第二に、私たちは天使すなわち聖なる公同の使徒的なる教会を通してキリストの御身体に連なる僕たちとならせて戴いています。第三に、御言葉と聖霊によっていまここに現臨したもう復活の主イエス・キリストを通して、私たちはキリストをわが主・救い主として信じる者たちとされています。第四に、私たちは教会の働きとキリストと聖霊とによって、真の神を知り、信じる者たちとされ、真の神に立ち帰り、ただ神にのみ栄光を帰したてまつるのです。

 

 それは、私たちキリスト者が、キリストに(キリストの御身体なる教会に、そして福音の御言葉に)最初に出会った時のことを思い起こせばよく理解できるのではないでしょうか。私自身のことを申しますなら、私が最初に聖書の御言葉に接したのは農学校の図書館で偶然に出会った新島襄の伝記(J.D.Daviesが書いたもの)によってでした。それから間もなく、私が最も親しくしていた友人が急性白血病で17歳で亡くなるという出来事があり、私はその経験を通して聖書を熱心に読むようになり、教会に通うようになりました。

 

 そのとき、いや、今でも私が不思議に思いますことは、新島襄という人が1864年に函館港から密航してアメリカに渡らなかったら、そして彼が上海で5ドルで漢訳聖書を買って読まかったなら、おそらく新島襄はキリスト者にならなかったでしょう。するとデーヴィスも新島襄の伝記を書かなかったわけです。すると、私もおそらく、友人の死の出来事があったとしても、教会に通うことはなかったと思います。キリスト者にもならなかったと思います。そういうことを考えますと、私がとても不思議に思いますことは、そこにも「福音の伝達の段階」が神の御心によって備えられていたということです。そして大切なことは、それら全てが主なる神から出て、私を主なる真の神へと導いたことであります。これは、ここにいる皆さんご自身の入信の経緯を顧みても同じことが言えるのではないでしょうか。

 

 (1)イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである」この出来事は、いま、私たち一人びとりに主なる神が現わして下さった救いの出来事そのものでもあるのです。私たちはこれから黙示録を通して約2年間(もしかしたら3年ぐらい)福音を聴いて参りますけれども、その生命の言葉そのものである福音の真理は、いつも、新しく、私たち一人びとりの信仰と生活の唯一の規範としての神の言葉なのです。そしてその神の言葉こそが真の教会(十字架と復活の主イエス・キリストの御身体なる唯一の聖なる公同の使徒的なる教会)を建て、成長させ、前進せしめ、再び来たりたもう主を待ち望みつつ、全世界に現わされる救いの完成と真の平和を待ち望み確信しつつ、勇気と希望と慰めをもって歩んでゆく、真のキリストの弟子、神の僕たる人生を、私たち一人びとりに与えるものなのです。祈りましょう。