説 教 ヨブ記19章23−27節 ローマ書8章31−34節
「我を贖う者は活く」
2024・08・18(説教24332080)
今朝私たちに与えられました旧約聖書ヨブ記19章23節以下の御言葉をもういちど口語訳でお読みしたいと思います。「(23)どうか、わたしの言葉が、書きとめられるように。どうか、わたしの言葉が、書物にしるされるように。(24)鉄の筆と鉛とをもって、ながく岩に刻みつけられるように。(25)わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。(26)わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。(27)しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる」。
ヘンデルのオラトリオ「メサイア」にも美しいアリアによって歌われておりますこの御言葉は、苦難に満ちた日々の中で主なる神にその苦難の意味を問い続けたヨブの魂に与えられた黙示(アポカリプス)でした。まず最初にヨブは23節にこう申しています。「(23)どうか、わたしの言葉が、書きとめられるように。どうか、わたしの言葉が、書物にしるされるように。(24)鉄の筆と鉛とをもって、ながく岩に刻みつけられるように」。ヨブは、いま自分の魂に与えられたこの答えこそ、全ての人が求めてやまない問いに対する神からの決定的な回答だと言うのです。
だからいま、私は震え戦くこの手でもって、その言葉を「鉄の筆と鉛とをもって」岩に刻んでおきたい。この言葉を永遠に忘れることのないために、誰もが読める形でこの地上に残しておきたいと言うのです。その言葉とはなんであったかと申しますと、それこそ今朝の25節です。「(25)わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる」。昔の人は「朝に道を聴かば夕べに死すとも可なり」と言いましたが、いまヨブは「この答えが神から示されたからには、私はもういつ死んでも悔いはない」と言うのです。では、それほどの大きな喜びと感謝をもって、ヨブが「鉄の筆と鉛とをもって」書き残そうとしたその御言葉の意味とは、いったい何であったのでしょうか?
かつて、スウェーデンの神学者ナータン・ゼーデルブローム (Nathan Söderblom 1866-1931) は「神信仰の生成」(Das Werden des Gottesglaubens, Untersuchungen über die Anfänge der Religion 神信仰の生成すなわち宗教の起源に関する考察)という宗教哲学に関する著書の中で「人類史はすなわち真の神を求める魂の歴史である」と語りました。私はこの言葉に神学生時代に出会いまして、大きな感動を与えられたことを昨日のことのように覚えています。皆さんは全ての人間が本当に求めているものは何だと思いますでしょうか?。それは突き詰めるなら、ゼーデルブロームが語っている「真の神」にお会いしたい(本当の神にお目にかかりたい)という一事に尽きるのではないでしょうか。壮大なスケールで知られる宇宙天文学はその本質において「人類の起源を探求する学問」であると言われています。しかし私たちはどこにおいて真の神を探求したら良いのでしょうか?。それは神学(さらに言うなら真の神からの福音=神の御言葉)だけが私たちに示してくれるのです。
ところが、ここでこそひとつの大切な問題があります。たとえ私たちが真の神にお目にかかることができたとしても、それがすなわち私たち人間の救いであるとは必ずしも言えないということです。なぜなら、私たちは生まれながらにして罪の内にあり、真の神に叛いている存在だからです。さらに聖書の御言葉によれば、私たちは真の神に叛いている自分の姿さえ見えないでいる存在なのです。神に叛いてしか存在しえないという究極の不自由さの中にあるにもかかわらず、自分は自由だ、幸福だ、満たされていると、根拠のない自己満足に浸っているのが私たち人間の偽らざる姿なのです。いみじくもパスカルがパンセで語っているように、私たち人間は「さかさまな存在」なのです。
ヨブ記の御言葉に戻りましょう。ヨブはどのような黙示を神から与えられたのでしょうか?。それは25節にあるように「(25)わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる」という啓示(主なる神からの福音の告知)でした。この「わたしをあがなう者」という言葉が大切です。ヨブはただ単に「私は神様にお目にかかった」と言っているのではないのです。そうではなくて「(25)わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる」と語っているのです。測り知れない罪の内にあって滅びるよりほかにないこの私を「贖って下さるおかた」として、主なる神おんみずから、必ず「地の上に立たれる」(=真の神が人となられて、私の罪の贖いをなして下さる)と語っているのです。これはヨブの絶唱であると言えます。この黙示を魂に受けたからには、ヨブはもう喜んで、感謝して、主なる神の御名を崇めるのみなのです。
今朝、併せてお読みした新約聖書ローマ書8章31節以下をご覧ください。「(31)それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。(32)ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。(33)だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。(34)だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」。
ここにこそ、ヨブが魂に戴いた神からの黙示の意味が示されているのです。すなわち、使徒パウロはこう語っています。「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」と。思えば私たちは、測り知れない罪の内にある者として、神にお目にかかれるどころか、神の御前に立つことさえ許されない存在なのではないでしょうか。しかし、まさにそのような「罪人のかしら」なる私たちのために、主なる神は御子(独子)イエス・キリストを世にお与え下さって、その御子イエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪を完全に贖って下さったのです。パスカルのパンセの言葉をここでも引用しますなら「私たちはただ単に神を知るのではなく、十字架の主イエス・キリストにおいて、唯一の贖い主(救い主)として真の神を知る」のです。
ヨブは自らの人生に降りかかった恐ろしい苦難の数々について、その意味を主なる神に問い続けました。しかし最後に示されたヨブへの答えは、まさにこのローマ書8章31節以下にあるように「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」という事実でした。たとえいま自分の目でその贖い主を観ることができなくても(真の神に見える形でお会いすることができなくても)このかたは(この真の神は)私の罪を贖うためにその尊い独子イエス・キリストをさえ世に賜って下さるおかたである。言い換えるなら、神ご自身がいつも、罪の贖い主として私と共にいて下さる。私が神を問う以前に、神は私の測り知れない罪を贖い、既にその贖いの恵みの確かさにおいて、私に出会っていて下さっているおかたである。
そのことをヨブは知りまして、感謝と共に「(23)どうか、わたしの言葉が、書きとめられるように。どうか、わたしの言葉が、書物にしるされるように。(24)鉄の筆と鉛とをもって、ながく岩に刻みつけられるように」と語っているのです。「(25)わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。(26)わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。(27)しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる」。
いま既に、私たちもこの同じ恵みの中に立たせて頂いています。この同じ祝福と救いの恵みの内に、私たち一人びとりの人生もまた新たなものとされているのです。そして、わたしたちもまた、いま、真の神にお目にかかる幸いの内にあります。真の神は、十字架と復活の主イエス・キリストにおいて、聖霊によって、御言葉と共に、キリストの御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会において、いつも、いつまでも、私たちと共にいて下さり、私たちの唯一の、永遠の贖い主として、御自身を私たちに示していて下さるからです。祈りましょう。