説 教 箴言10章25節 ピレモン書8−16節
「嵐が通りすぎる時」
2024・08・11(説教24322079)
「(8)こういうわけで、わたしは、キリストにあってあなたのなすべき事を、きわめて率直に指示してもよいと思うが、(9)むしろ、愛のゆえにお願いする。すでに老年になり、今またキリスト・イエスの囚人となっているこのパウロが、(10)捕われの身で産んだわたしの子供オネシモについて、あなたにお願いする。(11)彼は以前は、あなたにとって無益な者であったが、今は、あなたにも、わたしにも、有益な者になった。(12)彼をあなたのもとに送りかえす。彼はわたしの心である。(13)わたしは彼を身近に引きとめておいて、わたしが福音のために捕われている間、あなたに代って仕えてもらいたかったのである。(14)しかし、わたしは、あなたの承諾なしには何もしたくない。あなたが強制されて良い行いをするのではなく、自発的にすることを願っている。(15)彼がしばらくの間あなたから離れていたのは、あなたが彼をいつまでも留めておくためであったかも知れない。(16)しかも、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上のもの、愛する兄弟としてである。とりわけ、わたしにとってそうであるが、ましてあなたにとっては、肉においても、主にあっても、それ以上であろう」。
ピレモンへの手紙は西暦53年に、使徒パウロがエペソの獄中から、コロサイ教会の教会員であった主にある親しい友人で協力者なるピレモン、そしてアピアとアルキポ、加えてピレモンの家庭に連なる全ての人々に宛てて書いた短い手紙です。ですからこれは、きわめて個人的な内容のものでありまして、エペソの獄中にあった使徒パウロが、その頃起こったあるひとつの懸念すべき出来事について、ピレモンに対して理解と協力と解決を願っている、ある意味でプライベートな書簡であるということができるのです。
さて、そこで、その使徒パウロの懸念とは何であったかということです。コロサイのピレモンの家にはオネシモという名の少年奴隷がいました。奴隷と聞きますと私たちは鎖で繋がれたような姿をイメージしますが、そうではなくて、古代ローマ帝国における奴隷というのは家の使用人のような立場であり、主人にとっていわば「生ける財産」のような存在であったわけです。オネシモという名はギリシヤ語で「有益な者」という意味です。ところがどうしたことか、この少年奴隷オネシモがピレモンの家から逃亡したのです。ローマの法律(それこそ古代ローマ法)によれば逃亡した奴隷には重罪が課せられるのが常でした。主人の「生ける財産」であったにもかかわらず逃亡することによって主人やその家に大きな損失を与えたという咎で、厳しい処罰が待ち受けていたわけであります。
しかもオネシモは、逃亡するときにピレモンの家から幾許かのお金を盗んでいったらしいのです。逃亡に窃盗が加わりますと、これは死罪になっても仕方がないほどの罪でした。おそらく少年オネシモには路銀が(旅の費用が)必要だったのでしょう。そしてその旅路はどこに向かう旅路であったかと言いますと、なんとエペソの獄中にいる使徒パウロのところに行くための旅路でした。オネシモは使徒パウロを訪ねてはるばる数百キロ離れたコロサイからエペソまで旅をしてきたわけです。そのためにこそオネシモはピレモンの家から逃亡し、主人に内緒で幾許かの路銀を盗むようなことまでしてしまったわけです。
さて、エペソの獄中にいるパウロのもとにやって来たオネシモは、そこでパウロから洗礼を受けてキリスト者になるのです。もしかしたら、それこそがオネシモの逃亡の理由だったかもしれません。そのうえで、パウロはこのオネシモをコロサイのピレモンのもとに送り返すのですが、それにあたって、オネシモにピレモンに宛てたひとつの手紙を持たせた。それがこのピレモンへの手紙なのです。どうぞいま申し上げたことを念頭に置いて、改めて今朝の8節以下をお読みください。「(8)こういうわけで、わたしは、キリストにあってあなたのなすべき事を、きわめて率直に指示してもよいと思うが、(9)むしろ、愛のゆえにお願いする。すでに老年になり、今またキリスト・イエスの囚人となっているこのパウロが、(10)捕われの身で産んだわたしの子供オネシモについて、あなたにお願いする。(11)彼は以前は、あなたにとって無益な者であったが、今は、あなたにも、わたしにも、有益な者になった。(12)彼をあなたのもとに送りかえす。彼はわたしの心である」。
ここでパウロが10節に「捕われの身で産んだわたしの子供オネシモ」とは、オネシモが獄中のパウロから洗礼を受けてキリスト者になったことを示しています。その、主にありて愛する我が子オネシモ、12節によれば「彼はわたしの心である」とさえ言いきっているオネシモの処遇を、使徒パウロは続く13節以下にこのように、ピレモンに依頼しているのです。「(13)わたしは彼を身近に引きとめておいて、わたしが福音のために捕われている間、あなたに代って仕えてもらいたかったのである。(14)しかし、わたしは、あなたの承諾なしには何もしたくない。あなたが強制されて良い行いをするのではなく、自発的にすることを願っている。(15)彼がしばらくの間あなたから離れていたのは、あなたが彼をいつまでも留めておくためであったかも知れない。(16)しかも、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上のもの、愛する兄弟としてである。とりわけ、わたしにとってそうであるが、ましてあなたにとっては、肉においても、主にあっても、それ以上であろう」。
ここで特に私たちが心に留めたいのは15節の御言葉です。「彼がしばらくの間あなたから離れていたのは、あなたが彼をいつまでも留めておくためであったかも知れない」。これは原文のギリシヤ語を直訳しかつ意訳いたしますなら、このようになります。「オネシモが(あなたのもとから逃亡して)しばらくのあいだあなたから離れていた(その理由は、まさに主なる神の御計画だったのだ)。なぜなら、オネシモはいまや私のもとで洗礼を受けてキリスト者となり、まさしくその名前のように「オネシモ=有益な者」になったのだから。そして、その神の御計画とは何であったかというと、それはあなたがオネシモを永遠に主にあって愛するあなたの兄弟として留めておく幸いを得るためであった」。
つまり使徒パウロは、主にある友人であるピレモン(またピレモンの家に連なる全ての人々)に対して、どうか私が送り返すオネシモを、もはや奴隷としてではなく、これからは主にある兄弟として、温かく迎え入れてあげてほしいと願っているわけです。ですから16節には「しかも、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上のもの、愛する兄弟としてである。とりわけ、わたしにとってそうであるが、ましてあなたにとっては、肉においても、主にあっても、それ以上であろう」と語っているのです。事実、このピレモン書の数年後に書かれたコロサイ書4章9節を見ますと「あなたがたのひとり、忠実な愛する兄弟オネシモをも、彼(テキコ)と共に送る。彼らはあなたがたに、こちらのいっさいの事情を知らせるであろう」と記されており、このことによって私たちは、ピレモンが使徒パウロの要請を快く受け入れ、その結果オネシモはコロサイ教会の有力な青年メンバーとして、パウロの伝道の協力者として大きな働きをなしたという事実を知ることができるわけです。
よく、日本では、大きな試練の後で問題が解決し、物事がうまく運んで行ったことを「雨降って地固まる」と言いますが、それをもし聖書の言葉で言い換えるなら、それは箴言10章25節になるのです。「あらしが通りすぎる時、悪しき者は、もはや、いなくなり、正しい者は永久に堅く立てられる」。奴隷オネシモの逃亡と窃盗は、ピレモンの家庭のみならず、コロサイ教会や使徒パウロをも巻き込んだ大きな嵐のような試練でした。しかしその嵐によってこそ「悪しき者は、もはや、いなくなり(その悪しき力を失い)、正しい者(主イエス・キリストを信じる者たち)は永久に堅く立てられる」ということが明らかになりました。
このことを使徒パウロは、既に神が与えて下さった祝福として先取りしつつ、ピレモンやコロサイの教会の人々と共に感謝しつつ、今朝のピレモン書8節以下の御言葉を語っているわけでありまして、私たち今日のキリスト者たちにとりましても、このことは、大きな慰めであり、感謝であり、主に結ばれた僕たちの生きかたを示すものとして、読み継がれるべき御言葉なのであります。御言葉に堅く立ち、神の御心に従って歩むこと、いかなる時にもキリスト者として歩むこと、そこにこそ、真に幸いで自由な、祝福された人生が開かれてゆくのです。私たち一人びとりがいま、その真に幸いで自由な、祝福された人生を生きる僕たちとされていることを感謝しつつ、喜びつつ、新しい一週間を歩んで参りたいと思います。祈りましょう。