説     教         ダニエル書244節  ヨハネ福音書122025

                  「一粒の麦もし死なずば」

                   2024・08・04(説教24312078)

 

 「(20)祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。(21)彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。(22)ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた。(23)すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。(24)よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(25)自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう」。

 

 今朝の説教題を「一粒の麦もし死なずば」といたしました。この題をお聞きになって、フランスの小説家アンドレ・ジッドの同名の小説を思い起こされたかたもいるのではないでしょうか。このことからもわかりますように、ヨハネ伝1224節にあるこの御言葉は、聖書の中でもとくに有名なもののひとつです。ある意味で、主イエスの御言葉の中で最もよく知られているものかもしれません。しかしでは、アンドレ・ジッドも含めて、この大切な御言葉の意味(それはようするに「一粒の麦」の主語がいったい誰であるか、ということに尽きるのですが)が正しく知られているかどうかと申しますと、どうもそうではないように感じるのです。

 

 まず最初の20節からお読みしてまいりましょう。「(20)祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。(21)彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ」というのです。この「祭り」と申しますのは毎年3月にエルサレムで行われていた大贖罪祭のことです。年に一度だけ大祭司が神殿の至聖所に入って、自分自身と全ての民の罪の贖いのために燔祭の献げものをする儀式でして、約10日間続くその大贖罪祭には世界各地から大勢のユダヤ人が(ディアスポラと呼ばれる海外在住のユダヤ人たちが)エルサレムに集まってくるのが常でした。

 

 ところが、その、エルサレムの大贖罪祭に集まってきた人たちの中に、ユダヤ人ではない「数人のギリシャ人」が(つまり異邦人が)いたというのです。そして21節によれば、彼らは「ガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ」のでした。これは、どういうことかと申しますと、この「数名のギリシャ人」は、ナザレのイエスこそこの大贖罪日に崇められるべき唯一のおかただ(つまりナザレのイエスのみが真の神の唯一の独子であると)告白しているわけです。だから彼らは神殿にもどこにも立ち寄らず、一心不乱に主イエス・キリストだけにお目にかかりたいと願ったのです。21節の「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」という言葉も、並々ならぬ彼らの信仰による決意がうかがえる言葉なのです。

 

 これを聞いたピリポは兄弟弟子であるアンデレにそのことを伝えました。そしてピリポとアンデレは相談いたしまして、このことをとにかく主イエスにお伝えしようではないかということになって、主イエスにその「数名のギリシャ人」のことをお話ししたわけです。それをお聞きになった主イエスがお語りになった御言葉が続く23節以下なのです。「(23)すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。(24)よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(25)自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう」。

 

 まず主イエスは「人の子が栄光を受ける時がきた」とおっしゃいました。主イエスが「栄光」という言葉をお用いになるとき、それは必ず十字架の出来事のことをさしています。つまりそれは、御自分が生命を献げて全ての人の罪の贖いを成し遂げて下さる出来事です。ふつう私たちは「栄光」と聞きますと、人々から称賛されることとか、名誉を与えられることなどを想像するのですが、主イエス・キリストは、御自分が十字架上に贖いの死を死にたもうこと、御自身の全てを献げて全人類の罪を贖いたもう出来事を「栄光」とお呼びになるのです。

 

 そして、さらに主イエスは24節にこのようにおっしゃいました。「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。ここは端的に素朴に語るべきでありましょう。この「一粒の麦」とは主イエス・キリスト、しかも十字架という栄光を父なる神の御手からお受けになる主イエス・キリストのことをさしています。他の誰のことでもなく、ただ十字架の主イエス・キリストのみが「一粒の麦」なのです。そして主イエスは、その「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」とお語りになりました。

 

 私はかつて農学校で学んだ経験を持つ者ですが、麦の種を畑にまくとき、いつも不思議な思いがしていました。それは、麦畑に麦の種を蒔きますと、完全に土の色と同化してしまって、あたかも麦の種が消えて無くなってしまったかのように見えるのです。あれほどたくさんの麦を畑に蒔いたにもかかわらず、蒔き終えた麦畑のどこをどう探しても麦の種は見つからないのです。当時の私は聖書を読み始めて(教会に通いはじめて)まだ間もないころでしたが、このヨハネ伝1224節の意味が少しだけ理解できたように感じました。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。

 

 麦の種は地に落ちると消えてしまう、つまり、存在そのものが無くなってしまうのです。少なくともそのように見えるのです。主イエスもその事実を知っておられたのだと思います。そして、さらに不思議なことは、その、畑の土と同化して消えて無くなってしまったように見える麦の種から、やがてたくさんの収穫が生まれることです。まさに主イエスがおっしゃるように「しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」のです。そして、その事実はなにをさし示しているかと申しますと、それこそ主イエスがお受けになった「栄光」すなわち十字架の死と葬りのことをさしているのです。

 

 かつて植村正久牧師はキリストの十字架について「それは神が我らの救いのためにお取りになった痛ましき手続きである」と語りました。この「痛ましき手続き」という言葉こそ、今朝のヨハネ伝1224節を意味しているのです。永遠なる神の独子であられるイエス・キリストが、私たちの救いのために、御自身の全てを献げて、生命を献げて、贖いを成し遂げて下さった。父なる神の御前に私たちの罪の執り成しをなさって下さった。「この者のために、私が身代わりになって死にますゆえに、どうぞこの者の罪を赦して、永遠の生命を与えてやって下さい」と執り成しをして下さった。贖いの死を遂げて下さった。この「贖い」を意味する元々のギリシヤ語(アポルトローシス)は「代価を払って買い取る」という意味です。

 

 まさに神の御子、主イエス・キリストのみが、私たちを罪と死の支配から贖い、私たちに永遠の生命を与え、御国の民(天に国籍あるもの)となして下さるために、御自分の全てを献げ切って、アポルトローシスを、罪の代価の支払いを、なして下さったのです。まさに「痛ましき手続き」を通して、私たちに確かな永遠の救いを与えて下さったのです。だから「一粒の麦」とはまさに十字架の主イエス・キリストのことなのです。このことを心に深く刻みつつ、感謝と讃美をもって、主の愛と平安の内を、主と共に、心を高く上げて、信仰の道を歩んでまいりたいと思います。祈りましょう。