説 教 イザヤ書40章11節 マタイ福音書11章28−30節
「キリストの軛を負うとは」 浜北教会にて
2024・07・28(説教24302077)
「(28)疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(29)わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。(30)わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
今朝の御言葉であるマタイによる福音書11章28節以下は、まことに豊かな慰めに満ちた御言葉であります。新約聖書の中でも、キリスト者でない人にも、よく知られている御言葉の一つでありましょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。私たちの耳に心地よく、この御言葉は響くのではないでしょうか。なによりも、これをいま私たちにお語りになっておられるのは、聖霊によってここに現臨しておられる主イエス・キリスト御自身です。主はここで「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも」とおっしゃいます。文字どおり、私たち全ての者たちを「わたしのもとに来なさい」と招いていて下さるのです。
しかしながら、どうぞ続く29節をご覧ください。そこには「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と告げられています。私たちは正直に申しますと、この主イエスの御言葉に、少しの違和感を感じるのではないでしょうか。そもそも私たち日本人にとって「私は」とか「私の」とか「私に」とかいう主語は、あまり表に出てこないほうが好ましいのです。それを3度も続けてやられますと、いささか「押しつけがましい」と感じてしまうのです。「はい、イエス様、そんなに何度も言われなくてもわかりますよ。もう十分です。わかりました」と感じてしまうのではないでしょうか。
それに加えて今朝の御言葉で決定的なのは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」とあることです。皆さんは「軛」というものを実際にご覧になったこことがあるでしょうか?。私はかつて農学校で学んだ経験がありますので、実際に馬に軛を装着して鋤を曳かせて畑を耕した経験があります。たぶん私あたりが(もちろん数は少ないですが)軛の扱いかたを知っている最後の日本人になるのかもしれません。とても難しいものでした。まず、ここで主イエスが語っておられる「軛」は2頭の馬に曳かせるのです。馬は(牛やロバも)機械ではなくて動物ですから、それぞれに性質や体力の差があります。若くて元気な馬もいれば、年を取っておとなしい馬もいる。強い馬もいれば、弱い馬もいるわけです。
ですから、そのような個々の馬の性質や体力の差をよく考えて、両方の馬にとって最も良い形で鋤を曳く力が加わるように、軛を調節してやらなければなりません。それが軛の扱いかたの本当の難しさなのです。そこで、このことを思いますと、29節の主イエスの御言葉の意味がわかってくるのではないでしょうか。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」。いまここで端的に皆さんに質問したいと思います。「もし主イエスが10の力を持つ馬だとしたなら、あなたは幾つの力を持っていると思いますか?」。
「10対8」ぐらいでしょうか?。「10対5」ぐらいでしょうか?。それとも思い切って謙虚に「10対2」ぐらいだと言っておきましょうか?。そのいずれも間違っています。主イエス・キリストの御力は神の永遠の御子として、罪と死に永遠にかつ完全に勝利して下さった救い主の御力なのです。罪と死に対して勝利して下さった神の御力です。それと同じ力を、私たちはたとえ1か2でも、持つことができるのでしょうか?。「10対1」なら正しい答えなのでしようか?。答えは「否」です。私たちは罪と死に対して完全に無力な者たちなのです。言い換えるなら、私たちは自分自身の中に救いの根拠を微塵も持ちえない、完全に無力な僕に過ぎないのです。
では、そのような、全く無力な私たちに対して、どうして主イエスは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」とおっしゃったのでしょうか?。不思議ではないでしょうか?。それは、こういう意味です。「あなたは、私が負うているこの軛に、ただ繋がっているだけで良いのだよ。ただ、ぶら下がっているだけで良いのだよ。私に全てを任せなさい。私があなたのために、この重い軛の全てを背負うのだから。あなたの人生の労苦の数々を、あなたの重荷を、すべて私に委ねなさい。そうすれば、あなたは楽になって、軽やかに、健やかに、喜んで、私と一緒に、人生の軛を背負い続けることができるようになる。私はそのために、あなたの罪と滅びを背負って、十字架に生命を献げて、あなたの贖いを成し遂げるために、ここに来たのだよ」と。
そういたしますと、私たちは続く「わたしに学びなさい」という御言葉の意味も理解できるのです。日本語の「学ぶ」という言葉は「まねぶ=倣う=自分をなげかける」から来ているそうです。奇しくも新約聖書の原語であるギリシヤ語でもそれは同じです。それならば、私たちが主イエスに「学ぶ」とは「私たちが主イエスに向かって自分を投げかけること」なのです。その主イエス・キリストはどういうかたで、私たちになにをなさって下さいましたか?。主は永遠の神の独子であられるにもかかわらず、私たちと全世界、そして全歴史の救いのために、ベツレヘムの馬小屋に人としてお生まれになり、私たちの罪を贖って下さるために、ゴルゴタの丘で十字架におかかりになり、御自分の生命を献げて、私たちを罪と死の支配から解放し、救いを与えて下さったおかたです。そして復活によって、聖霊により、聖なる公同の使徒的なる教会をお建てになり、そこになんの値もないままに私たちを招いて下さり、復活の生命に連なって歩む新しい人生を与えて下さいました。
まさにその、十字架と復活の主イエス・キリストに、私たちは自分の存在そのものを投げかける(お委ねする)幸いを与えられているのです。そのような人になりなさいと、主が招いておられるのです。主イエスのみが私たちにおっしゃって下さるからです。「私があなたのために、あなたの人生の重荷という重い軛を担うから、あなたは安心していなさい。あなたは、私が担うその軛に手を添えているだけで良いのだ。ぶら下がっているだけで良いのだ。大切なことは、私に繋がっていることだけだ。私に繋がって生きるなら、あなた自身を私に投げかけて歩むなら、あなたはもう勇気百倍、軽やかな軛を私と共に担いつつ、喜んで、平安の内に、歩み続けることができるではないか。私があなたのために、あの呪いの十字架を担ったからだ。私があなたの救いを成し遂げたからだ。そのようにいま主イエス・キリストは、私たち全ての者に語りかけていて下さるのです。
だから、これはまことに押しつけがましい主の恵みの数々です。「私が」という主語が何度も出てくるのも当然のことです。私たちの救いは、少しも、私たち自身の力によるものではないからです。ただ十字架と復活の主イエス・キリストのみが、永遠に変わらぬ私たちの贖い主、救い主にいましたもうからです。だからこそ今朝の30節において主ははっきりと語って下さる。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と。そして同時に私たちは、旧約聖書・イザヤ書40章11節の御言葉を心に留めたいと思います。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」。ここに集うている皆さんは全て、唯一の救い主なる主に導かれて行く群れ、キリストの軛に繋がる喜びと幸いを与えられた群なのです。祈りましょう。