説     教               エレミヤ書3120節  使徒行伝2028

                    「神の己の血をもて」

                   2024・07・21(説教24292076)

 

(28)どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである」。今朝お読みしたこの口語訳聖書の使徒行伝2028節は、実は昔の文語訳とは大きく異なる点があります。それは「神が御子の血であがない取られた神の教会」とあるところを、昔の文語訳聖書では「神の己の血をもて買ひ給ひし教会」と訳していることです。つまり「神が御子の血であがない」というのを文語訳では「神の己の血をもて買い給ひし」と訳しているわけでして、これは非常に大きな違いであると言わなければなりません。

 

 もう30年以上も前のことですが、私はある時、いまみなさんがお持ちになっている1954年版の口語訳聖書の初版を偶然に入手いたしました。ところが、その初版を見ますと使徒行伝2028節は「神が御自身の血であがない取られた」となっているのです。文語訳と同じなのです。それで、私はある日のこと、当時銀座の教文館ビルにありました日本聖書協会の事務局に行きまして、そのことをお話して、いつ、いかなる理由で、誰によって、この部分の訳が変えられてしまったのか、ということを訊き糺しました。その時に対応して下さったのはルーテル教会の元ビショップで聖書学者でもあったかたでしたが、そのビショップが言われますには、初版が出版されてから間もなく、ある神学者からクレームがついて、この2028節を現在のように訳しかえたと言うのです。私は驚きを通り越して呆れ果ててしまいました。

 

 結論から申しますなら、この使徒行伝2028節は絶対に「神の己の血をもて買い給ひし教会=神が御自身の血であがない取られた神の教会」でなければならないのです。今日はそのことを福音として共に聴いて参りたいと思うのです。まず、大切なのは新約聖書のギリシヤ語の原文ですが、原文ではもちろん「神が御自身の血であがない取られた神の教会」となっています。ただ、後の時代になってから加筆された、いわゆる「異本」というものがありまして、その異本の中には「神が御子の血によって」となっているものがあります。つまり、いま皆さんが持っている口語訳聖書はこの異本に従っているわけです。では、他の諸国語の聖書はどうかと申しますと、英語の欽定訳も、ドイツ語のルター訳やチューリッヒ訳も、フランス語の聖書も、全て「神が御自身の血によって」と訳しています。異本ではなく、本文に従っているわけです。言い換えるなら、日本語の口語訳聖書だけが異本に従っていることになります。

 

 (ちなみに、ちょうど一年ほど前に「共同訳聖書」というのが出版されました。口語訳聖書や新共同訳聖書の不備な点を是正して、まったく新しく翻訳し直したものです。それにはきちんと「神がご自身の血によってご自分のものとなさった神の教会」と、まことに正しい訳になっています)

 

 なによりも、主イエス・キリストは、永遠の神の御子にいましたもうのです。それならば、主イエス・キリストは父なる神と本質において同質なるおかた、つまり、父なる神と一体であられるおかたであり、だからこそ381年のニカイア信条ではキリストについて「(主は)まことの人にしてまことの神、御父と同質にして、御父と聖霊と共に礼拝されるべきかた」と告白されているのです。それならば、御子イエス・キリストが私たちの救いのために十字架上で流したもうた血は、それはただ単に一人の人間イエスの血ではないはずです。それはまさに「神がご自身の血によって」私たちを、そして全世界の罪を、贖って下さったことではないでしょうか。そして私たちが今集うておりますこの教会も同様に、共同訳聖書が正しく訳しているように「神がご自身の血によってご自分のものとなさった神の教会」なのであります。

 

 今朝のこの使徒行伝2028節は、福音の宣教者・使徒パウロが、愛するエペソ教会の長老たちをミレトの港に呼び寄せて、そこで決別の説教をしている場面です。エペソ教会の長老たちも、約50キロの道を一昼夜かけて歩いて、ミレトにやって来たのです。みんな、これが使徒パウロとの最後の別れだと覚悟していました。その長老たちに、使徒パウロはただ神の御言葉だけを語ります。32節には「(32)今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある」と記されています。余計なことを語ることはできないのです。そんな時間も余裕もないのです。だから使徒パウロは、ただ神の言葉のみにエペソの教会を委ねました。まさに、その中心部分こそが今朝の28節なのです。

 

 私たちのため、全世界の救いのために、贖いのために、あの呪いの十字架におかかり下さり、血を流して生命を献げて下さったのは、ほかならぬ永遠の神の独子なる主イエス・キリストなのです。主イエス・キリストが十字架において流して下さった血は「神ご自身の血」であり、エペソの教会は、そして私たちのこの葉山教会もまた「神がご自身の血によってご自分のものとなさった神の教会」なのです。言い換えるなら、御子イエス・キリストによる十字架の御業は、神御自身が私たち全ての者のために世に現わして下さった確かな永遠の救いの御業なのです。だから御子イエス・キリストが流したもうた血は神御自身の血でもあるのです。まさにそこに、その測り知れない恵みの事実の上に、私たちの教会も立っている。教会の礎はそれ以外のものではありえないのです。教会の本質は「神がご自身の血によってご自分のものとなさった神の教会」であるところにあるからです。

 

 今朝、併せて旧約聖書 エレミヤ書の3120節をお読みしました。そこにはこうございました。「(20)主は言われる、エフライムはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ子であろうか。わたしは彼について語るごとに、なお彼を忘れることができない。それゆえ、わたしの心は彼をしたっている。わたしは必ず彼をあわれむ」。これは文語訳ではこのように訳されています。「(20)ヱホバいひたまふ。エフライムは我愛するところの子、悦ぶところの子ならずや。我彼にむかひてかたるごとに彼を念はざるを得ず。是をもて我膓かれの爲に痛む、我必ず彼を恤むべし」。ここには「是をもて我膓かれの爲に痛む」と訳されています。原文のヘブライ語を最も忠実に訳しています。

 

私たちはよく(最近は使われなくなりましたが)本当に苦しいことを「断腸の思い」と申します。主なる神は(全能なる父なる神は)私たちを(エフライムを)愛するあまり、断腸の思いをなさって下さるかたなのです。神は苦しまないからこそ神なのではないか(セオス・アパセース=苦しまない神)というギリシヤ哲学的神観念はここでは成り立ちません。聖書がこう語っているのですから。まことの神は「是をもて我膓かれの爲に痛む」とはっきりと語って下さるおかたなのです。まさにこの「神の断腸の思い」を新約聖書の使徒行伝では「神がご自身の血によってご自分のものとなさった神の教会」と言い表しているのです。

 

 16世紀にマティアス・グリューネヴァルトが描いた「イーゼンハイムの祭壇画」というキリスト磔刑図がありましょう。見る者をして戦慄させしむるまことに生々しく、惨たらしく、凄惨なキリストの磔刑図です。実際の主イエス・キリストの十字架の様子は、それよりもっと惨たらしいものだったに違いない。それならば、まさにそこで主が血を流して、私たち全ての者の救いを成し遂げて下さった、その「御子が流された血」こそは「神が御自身の血をもって」私たちを贖い取って下さるための血であり、全世界の確かな救いのための十字架であったのです。そのことを私たちは、今朝の使徒行伝2028節、そして旧約聖書エレミヤ書3120節を通してはっきりと福音として聴く者たちとされているのです。私たちのこの葉山教会もまた「神がご自身の血によってご自分のものとなさった神の教会」にほかならないからです。祈りましょう。