説 教 イザヤ書40章31節 マタイ福音書11章28−30節
「我が軛を負いて我に学べ」
2024・07・14(説教24282075)
「(28)すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。(29)わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。(30)わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
今朝の説教の題を「我が軛を負いて我に学べ」といたしました。今朝のマタイ伝11章28節以下の慰めに満ちた印象からいたしますと、これはいささか堅く、野暮ったくさえ感じらる説教題かもしれません。しかし、私が敢えてこの説教題を選んだ理由は、今朝のこの御言葉はおそらく、私たちが想像しているよりもはるかに大きな真の慰めを私たち一人びとりに告げているものだからです。
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。これは、なんと慰めに満ちた優しい御言葉でありましょうか。これを私たちにいまお語りになっておられるのは、聖霊によってここに現臨しておられる主イエス・キリスト御自身です。主はここで「すべて重荷を負うて苦労している者は」とおっしゃいます。文字どおり、私たち全ての者たちを「私のもとに来なさい」と招いていて下さるのです。
ところが、どうぞ続く29節をご覧ください。そこには「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」と告げられています。まさに今朝の説教題そのものです。そして実は、私たちは主イエスのこの御言葉に、いささか違和感を感じるのではないでしょうか。それは、主イエス自らここに「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」と明確に語っておられることです。
そもそも私たち日本人にとって「私は」とか「私の」とか「私に」とかいう主語は、あまり表に出てこないほうが望ましいのです。これを3度もやられますとうんざりしてしまうのです。「はい、イエス様、そんなに何度も言われなくてもわかりますよ。もう十分です」と感じてしまうのです。それに加えて「私は柔和で心のへりくだった者であるから」とか「わたしの軛を負うて、私に学びなさい」などと言われますと「なんて押しつけがましいんだろう」と感じてしまうのではないでしょうか。
言い換えるなら、この有名な御言葉において、私たちが感じる違和感は「キリストの押しつけがましさ」であります。「キリストの自己主張」と言ってもよいかもしれない。日本的な聖人の理想像は「控えめな、押しつけがましくない、老紳士」です。しかし主イエス・キリストは、今朝の御言葉を見る限り、そのいずれにも該当しないのではないでしょうか。
今朝の御言葉の中には「軛」しかも「私の軛」という言葉が出てきます。皆さんは軛を実際に見たことがあるでしょうか。私はかつて農学校で学んだ経験がありますので、実際に馬に軛を装着して鋤を曳かせて畑を耕した経験があります。たぶん私あたりが(もちろん数は少ないですが)軛の扱いかたを知っている最後の日本人になるのかもしれません。とても難しいものでした。まず、軛というのは2頭の馬に曳かせるのです。馬は(牛やロバも)機械ではなくて動物ですから、みんなそれぞれに性質や体力の差があります。若くて元気な馬もいれば、年を取っておとなしい馬もいますし、体力的に強い馬もいれば、それほど強くない馬もいるわけです。
ですから、そのような個々の馬の性質や体力の差をよく考慮して、両方の馬にとって最も良い形で鋤を曳く力が加わるように、軛を調節してやらねばなりませんでした。それが軛の扱い方の本当の難しさなのです。そこで、そのように考えますと、主イエスの御言葉の意味が、わかってくるのではないでしょうか。「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」。いまここで端的に皆さんに問いたいと思います。「もし主イエスが10の力を持つ馬だとしたなら、あなたは幾つの力を持っていると思いますか?」と。
「10対8」ぐらいでしょうか?。「10対5」ぐらいでしょうか?。それとももっと謙虚に「10対2」ぐらいだと言っておきましょうか?。そのいずれも間違っています。主イエス・キリストの御力は神の永遠の御子として、罪と死に永遠かつ完全に勝利して下さった救い主の御力なのです。罪と死に対して永遠かつ完全に勝利して下さった御力です。それを、それと同じ力を、私たちは幾らかでも持つことができるのでしょうか?。「10対1」と言えば納得してもらえるのでしようか?。答えは「否」でしかありません。私たちは完全に無力なのです。言い換えるなら、私たちは罪と死からの救いに対して、完全に無力な僕に過ぎないのです。
では、そのような、全く無力な私たちに対して、どうして主イエスは「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」とおっしゃったのでしょうか?。それは、こういう意味です。「あなたは、私が負うているこの軛に、ただ繋がっているだけで良いのだよ。ただ、ぶら下がっているだけで良いのだよ。私に全てを任せなさい。私があなたのために、この重い軛の全てを背負うのだから。あなたの人生の労苦の数々を、すべて私に預けなさい。そうすれば、あなたは楽になって、軽やかに、健やかに、喜んで、私と一緒に、人生の軛を背負い続けることができるようになる。私はそのために、あなたの罪と滅びを背負って、十字架に生命を献げて、あなたの贖いを成し遂げるために、ここに来たのだよ」と。
そういたしますと、私たちは続く「私に学びなさい」という御言葉の意味も理解できるのです。日本語の「学ぶ」という言葉は「まねぶ=倣う=自分をなげかける」から来ているそうです。奇しくも新約聖書の原語であるギリシヤ語でもそれは同じです。それならば、私たちが主イエスに「学ぶ」とは「私たちが主イエスに向かって自分を投げかけること」なのです。その主イエス・キリストはどういう方で、私たちになにをなさって下さいましたか?。主は永遠の神の独子であられるにもかかわらず、私たちと全世界、そして全歴史の救いのためにベツレヘムの馬小屋に人としてお生まれになり、私たちの罪を贖って下さるために、ゴルゴタの丘で十字架におかかりになり、御自分の生命を献げて私たちを罪と死の支配から解放し、救いを与えて下さったかたです。そして復活によって、聖霊により、聖なる公同の使徒的なる教会をお建てになり、そこに何の値もないままに私たちを招いて下さり、復活の生命に連なって歩む新しい人生を与えて下さいました。
まさにその、十字架と復活の主イエス・キリストに、私たちは自分の存在そのものを投げかける(お委ねする)幸いを与えられています。主イエスは私たちにおっしゃって下さるからです。「私があなたのために、あなたの人生の重荷という重い軛を担うから、あなたは安心していなさい。あなたは、私が担うその軛に手を添えているだけで良いのだ。ぶら下がっているだけで良いのだ。大切なことは、私に繋がっていることだからだ。私に繋がって生きるなら、私にあなた自身を投げかけて歩むなら、あなたはもう勇気百倍、軽やかな軛を私と共に担いつつ、喜んで歩み続けることができるではないか。私があなたのために、十字架を担ったからだ。そのようにいま主イエス・キリストは、私たちすべての者に語り掛けていて下さるのです。
だから、これはまことに押しつけがましい主の恵みの数々です。「私が」という主語が何度も出てくるのは当然のことです。私たちの救いは、少しも、私たち自身の力によるものではないからです。ただ十字架と復活の主イエス・キリストのみが、永遠に変わらぬ私たちの贖い主、救い主でいましたもうのです。だからこそ今朝の30節において主ははっきりと語って下さる。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と。そして同時に私たちは、旧約聖書・イザヤ書40章31節の御言葉を心に留めたいと思います。「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、鷲のように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」。祈りましょう。