説 教 創世記1章1−2節 ヨハネ福音書1章1−5節
「天地創造」
2024・07・07(説教24272074)
私たちが信じる真の神、主イエス・キリストの父なる神は、天地万物の創造主にいましたもうおかたです。しかし、私たちはこの「天地創造の教理」について、いつも正しい信仰を持っているでしょうか。1549年スペインのイエズス会の宣教師として初めて日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは、日本人の教養ある人たちも、なぜか天地創造の話になるとキリスト教を嘲笑ったと記しています。それはなぜかと申しますと「もし神が天地万物を創造したというのなら、どうしてこの世界に悪や争いや矛盾があるのか?」というのが当時の日本人の反応だったというのです。
そこで、こうした反応は実は、現代の日本においてもそれほど変化していないのではないでしょうか。「もし神が天地万物を創造したというのなら、どうしてこの世界に悪や争いや矛盾があるのか?」もし私たちがこれと同じ問いを投げかけられたなら、どのようにこれに答えるのでしょうか?。これは古くて新しい伝道の課題だと思うのです。言い換えるなら、私たちキリスト者は心のどこかで「天地創造の教理」をまじめに受け止めることをやめてしまっているのではないでしょうか?。できるなら、このことに触れたくないとさえ思っているのではないでしょうか。
しかし、聖書はその最初の創世記1章1節において、既に明確に私たちに語っています。「はじめに神は天と地とを創造された」と。文語訳で申しますなら「元始に神天地を創造たまへり」です。この「元始」という漢字は、神がなさった天地創造の御業が、単なる物事の最初の出来事ではなく、まさに無からの創造の御業であったことを示すものです。ですからラテン語で申しますならcreatio ex nihiloと表記されます。そしてこの「ニヒル」とはただ単に「無」というだけの意味ではなく「虚無」または「混沌」を意味します。これはヘブライ語の原文を見るとよりいっそう明確になります。
どうぞ創世記の続く1章2節をご覧ください。「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」。私たちはこの御言葉を読むとき、どのような場面を(光景を)想像するでしょうか?。おそらく、神の霊が(それが何であるかはよくわからないとしても)静かに闇の中を漂っている、そのような光景を思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、それは違うのです。この「神の霊が水のおもてをおおっていた」というのは、ものすごい暴風のような、力強い、ダイナミックな光景なのです。
神の霊が(まさしく聖霊が)巨大な竜巻のように混沌のただ中にあらわれて、虚無のただ中に出現して、そのニヒルを(虚無を)根底から突き崩してゆく、虚無の虚無性を否定してゆく、そのようなまことにダイナミックな光景、それが創世記1章2節に記されている「「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」なのです。ですから最近新しく出版された「共同訳聖書」ではこの創世記1章2節を「地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と訳されています。これでもなお十分とは言えませんが「神の霊が…動いていた」と訳されていることは評価すべきでしょう。繰り返し申しますが、これはスタティックな光景ではなく、まことにダイナミックな光景なのです。
すると、どうなるのでしょうか?。500年前の安土桃山時代の人たちと同様、現代に生きる私たちもまた「もし神が天地万物を創造したというのなら、どうしてこの世界に悪や争いや矛盾があるのか?」という疑問を持っています。しかし、どうぞ考えてみて下さい。というより、今朝の創世記の御言葉を正しく聞いて下さい。天地創造に先立って既に虚無が(ニヒルが)存在していたのです。そのニヒルを、虚無を、深淵を、矛盾を、まさに突き破るようなダイナミックな救いの御業として、主なる神による天地創造の出来事が行われたのです。だから「神が創造された世界に、どうして悪や争いや矛盾があるのか?」ではなくて「神が創造された世界だからこそ、あらゆる悪や争いや矛盾に、既に神が勝利して下さり、私たちをその勝利に連なる者たちとして下さった」のです。それがキリスト教の天地創造の教理の根本部分です。
20年ほど前ですが、イギリスの宇宙物理学者であるスティーヴン・ホーキング博士が「聖書が語る天地創造の神話ほど馬鹿げたものはない」と語りました。しかしホーキング博士は創世記が語る天地創造の御言葉を正しく聞いていないからそのように語ったのです。そもそも天地創造の教理は現代科学による宇宙誕生の理論と少しも矛盾するものではありません。私はここで17世紀の数理哲学者ライプニッツが提唱した単子論を思い起こすのですが、ライプニッツの単子論によれば、全てのモナド(単子)は神が創造なさった全宇宙と密接かつ不可欠な関連性を持つのです。つまりライプニッツによれば「意味のない単子(個人)はひとつも存在しない」のです。実に私たち一人びとりが天地創造の御業と密接かつ不可欠な関連性を持つ存在なのです。その意味で、神による天地創造は「馬鹿げた神話」などではなく、現代に生きる私たちにとって存在と勇気と希望の根源となるものです。
それとともに、私たちは今朝、併せてお読みしたヨハネ伝1章1節以下の御言葉をも心に留めたいと思います。「(1)初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(2)この言は初めに神と共にあった。(3)すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。(4)この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。(5)光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」。西暦381年に制定されたニカイア信条は、天地創造の御業に主イエス・キリストも関わっておられることを明確に告白しています。「御子によらずして造られたるものは一つだになし」。それを明らかにしているのがこのヨハネ伝の冒頭の御言葉です。ここで「初めに言あった」とありますが、この「言」とは御子イエス・キリストのことです。つまり御子イエス・キリストは天地創造以前から父なる神と聖霊と共におられたおかたなのです。だから2節には「この言は初めに神と共にあった」と記され、続く3節には「すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれ(御子イエス)によらないものはなかった」と記されているのです。
そして、今朝の創世記の御言葉との関連で、特に大切なのは続く4節と5節です。「(4)この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。(5)光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」。4節の「この言に命があった」というのは、ベツレヘムの馬小屋に人としてお生まれになった主イエス・キリストのことをさしています。そして、まさにこの御子イエス・キリストの十字架と復活による全世界の救いの御業のゆえに、5節には「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」と明確に宣べ伝えられているのです。
これを言い換えるなら、こういうことになります。神による天地創造の御業は、同時に御子イエス・キリストの十字架と復活による、罪と死に対する勝利の御業なのです。だから使徒パウロはキリストによる救いを「新しい創造の御業」(ガラテヤ6:15)と語っています。まさに十字架と復活の主イエス・キリストによって、私たちのこの現実的世界、悪や争いや矛盾の絶えないこの現実的世界のただ中に、神の霊が激しく創造の御業を行いたもうたのです。御子イエス・キリストによる新しい創造の御業が完成したのです。この世界に存在する悪や争いや矛盾はいつか必ず終わりを迎え、御子イエスの来臨と共に、神の御国が歴史のただ中に完成することを私たちは知っています。なぜか?それは創世記が物語る創造の御業の御言葉を正しく聴くことによるのです。
「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」のです。これは現在形の言葉です。闇の支配は絶対に神の恵みの御業に勝つことはありえないのです。御子イエス・キリストの十字架と復活の御業が、天地創造の目的を物語っているからです。それは全世界と全歴史に対する神による救いの御業であり、その勝利の御業にいま、ここに集うている私たち一人びとりもまた、豊かにあずかる者たちとされているのです。祈りましょう。