説    教          イザヤ書531112節  ルカ福音書233943

                  「主がわれらと共に」 ルカ福音書講解〔209

                    2023・03・24(説教24122059)

 

 「(39)十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。(40)もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。(41)お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。(42)そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。(43)イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

 

 今朝はルカ伝2339節以下の御言葉を通して「主がわれらと共に」いましたもうことの意味についてご一緒に福音を聴いて参りたいと思います。ゴルゴタの丘で十字架にかけられたのは主イエスお一人ではなくて、同じ日、同じ時に、他に2人の犯罪人が十字架にかけられたのでした。この「犯罪人」という字は殺人や騒乱やローマ帝国に対する反逆罪など、当時のユダヤにおいて極刑に値すると考えられていた重罪を意味する言葉です。ともあれ、その2人の犯罪人は、一人は主イエスの右に、もう一人は左に十字架につけられたのですが、その(どちらかかはわかりませんが)一人が主イエスに申しますには「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた」のでした。

 

 しかし、もう一人の犯罪人はどうしたかと申しますと、彼をたしなめてこう申したのです。どうぞ40節から42節をご覧ください。「(40) もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。(41)お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。(42)そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。

 

 当時の、十字架による死刑は、想像を絶する苦痛と恐怖を伴うものでしたから、その多くの犯罪人が、神をも人を呪いながら死んでゆくのが普通でした。その様子はまさに、旧約聖書の申命記2123節にありますように「木に架けられたものは(十字架に架けられた者は)神に呪われた者である」とある律法の言葉を思い起こさせるほど惨たらしいものでした。ところが、その想像を絶する苦しみと絶望の中で、一人の犯罪人は、主イエスを呪ったもう一人のことを「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。(41)お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは(主イエスは)何も悪いことをしたのではない」とたしなめたのでした。

 

そして更に、彼は主イエスに申しますには「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と語ったのです。神に対するのと同じ祈りを、十字架の主イエス・キリストに対して献げたのです。ここで「あなたが御国の権威をもっておいでになる時には」とあることは大切です。なぜならこの言葉は、彼が主イエス・キリストの復活を信じていたことを示しているからです。つまり、この犯罪人にとって、主イエス・キリストは永遠の神の独子であり、十字架によって自分の罪を贖って下さるかたであり、復活して救いの御業を世に現し、完成へと導き、永遠に世界を治めて下さる救い主キリストであったのです。これは実に立派な信仰告白です。まさに死の間際に、彼はこの信仰告白を十字架の主イエス・キリストに対して献げたのです。

 

 そこで、この犯罪人に対する主イエスのお答えは、どのようなものだったのでしょうか。どうぞ今朝の43節をご覧ください。「(43)イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」この「よく言っておくが」というのは「アーメン」という言葉です。まさに神の真実において、私はあなたに言うと、ハッキリと主は約束して下さったのです。「あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいる」と!。どうぞこの「パラダイス=楽園」という言葉にも気を付けていただきたいのです。これは天国(すなわち神の国)をとても砕けた表現で表した言葉です。卑俗な言葉であったと言えます。その卑俗な「パラダイス」という言葉を主イエスは敢えて用いて下さったのです。それは、この犯罪人が天国の意味をよく理解できるようにして下さるためでした。

 

 過日、葉山教会で東海連合長老会の牧師会がございましたとき、私はある牧師に山室軍平の「民衆の聖書」という聖書注解シリーズを差し上げました。これは全部で20巻あるのもので、旧約聖書の創世記から新約聖書のヨハネ黙示録まで、それこそ「民衆の聖書」というタイトルのように、誰にもわかりやすく聖書の言葉を解説したものです。いまは絶版になっていて入手困難です。これを読んでいてとても感心いたしますことは、山室軍平という人は、当時のドイツのMayerの聖書注解などをきちんと読みこなしているのです。学術的なドイツ語の聖書注解書などをきちんと読んで書いているとわかるところが「民衆の聖書」の随所に出てきます。しかも講解そのものはとてもわかりやすい平易な言葉を用いて語られています。難しいことを誰にでもわかるように語るということは、とても大変なことなのです。それを見事に達成しているという意味で、私は山室軍平の「民衆の聖書」は世界に誇れる聖書注解書であると思っています。

 

 なぜ、そういうことを申したかと言いますと、主イエスはこの犯罪人に「天国」という言葉をお伝えになるとき、あえてわかりやすい「パラダイス」という言葉をお用いになったのです。それは「あなたはきょう、わたしと一緒に(そのパラダイスに)いるよ」と、やさしく、力強く、明確にお語りになられたのです。言い換えるなら「あなたはいつまでも、私が一緒にいるから、安心しなさい」と語って下さったのです。さらに言うなら「あなたはいま、私が与える永遠の救いの恵みの内にいるのだ」と、はっきりと告げて下さったことなのです。「あなたはいま、私が与える永遠の救いの恵みの内にいるのだ。あなたは、神の国に(パラダイス=終わりのない幸いの御国に)迎えられる人なのだ。そのように主イエス・キリストは、はっきりと、力強く、明確に、この犯罪人に語って下さったのです。

 

 そこで、この犯罪人に与えられた限りない救いの恵みは、同時に、ここに集うている私たち全ての者たちに、主みずからが与えて下さったものではないでしょうか。と申しますのは、私たちもまた、否、私たちこそ、主なる神の御前に、滅びるほかなき罪人であり「犯罪人」だからです。私たちは聖書が「罪人」とか「犯罪人」とか語るときに自分の周囲を見回してはいないでしょうか?。「罪人」「犯罪人」それはまさに、主なる神の御前における私たち自身の姿なのではないでしょうか。それならば、今朝のルカ伝2339節以下の御言葉によって明確に示されておりますことは、ここには私たち全ての者の救いの喜びと幸いが語られているのだということです。十字架の死の間際に、いかなる望みがありえたでしょうか?。同じように私たちにとっても、神の御前に死すべき罪ある存在であるという一点において、いかなる望みがありえたでしょうか?

 

 まさに、その「救いの望みなき私たち」を、救われえざる私たちを、十字架の主イエス・キリストのみが救いを与え、永遠の生命を約束して下さったのです。今朝併せてお読みした旧約聖書・イザヤ書5311節と12節をお読みしましょう。「(11)彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。(12)それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」。

 

 ここに、特に12節に「これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」とございます。十字架の主イエス・キリストは、私たちの救いのために、御自分の生命と魂までも注ぎ出して下さいました。そして「多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」のです。永遠にして聖なる神の独子が、私たちの罪を贖い救いを与えて下さるために、私たちをパラダイスに迎えて下さるために、永遠に主と共にある幸いと喜びを与えて下さるために、御自身みずからが私たちの全ての罪を背負われて十字架におかかり下さり、その死によって私たちの罪を贖って下さり、永遠の生命を与えて下さったのです。私たち一人びとりがいま、その救いに共にあずかる僕たちとされているのです。祈りましょう。