説    教           イザヤ書5345節  ルカ福音書233238

                  「ゴルゴタの丘の十字架」 ルカ福音書講解〔208

                    2023・03・17(説教24112058)

 

 「(32)さて、イエスと共に刑を受けるために、ほかにふたりの犯罪人も引かれていった。(33)されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。(34)そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。(35)民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。(36)兵卒どももイエスをののしり、近寄ってきて酢いぶどう酒をさし出して言った、(37)「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。(38)イエスの上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけてあった」。

 

 今朝の御言葉であるルカ福音書2332節以下には、主イエス・キリストがゴルゴタの丘の上で十字架におかかりになったときの様子が事細かに記されています。まず32節を見ますと、主イエスの他にも「二人の犯罪人」が十字架にかけられたとございます。33節によれば「されこうべ」つまり髑髏と呼ばれる丘に着いたとき、主イエスを中心にして「犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架に」かけられたのでした。ゴルゴタという名前は、おそらくそこが処刑場であったため、人骨が散乱していたことによるものでしょう。まさにこの世の地獄を彷彿とさせるおぞましく恐ろしい丘の上で、主イエスの十字架刑が執行された様子がわかるのです。

 

 この十字架の様子を、いったい誰が目撃していて、福音書記者ルカに記録させたのでしょうか?。主イエスの十二弟子たちは、最後の晩餐の直後にそれこそ雲の子を散らすように逃げてしまっていたのでした。推測いたしますに、おそらくクレネ人シモン、そして主イエスと共にゴルゴタの丘について行った女性たち、これらの人々が主イエスの十字架を目撃したのではないでしょうか。特にクレネ人シモンの果たした役割は大きかったに違いありません。彼はゴルゴタの丘の上で見たこと聞いたことを、福音書記者ルカに語り、それをルカがここに事細かに記しているのではないでしょうか。

 

 だとすれば、私たちはここに、クレネ人シモンがナザレのイエスをキリスト(全人類の唯一の救い主)と信じるに至った出来事を見るのです。それは今朝の34節です。「そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。主イエス・キリストは、御自分を十字架につけた全ての人々のために祝福と赦しを祈って下さいました。そして彼らのために父なる神に執り成したもうたのです。「父よ、彼らをお赦し下さい」と。

 

クレネ人シモンは、十字架の主のこの御言葉に接して「このかたは本当に神の子キリストである」と強く感じたに違いないのです。そして、自分が無理やり十字架を背負わされてゴルゴタの丘に導かれたことを、主なる神に感謝したに違いありません。このようにしてクレネ人シモンは、のちに主の復活の証言者となった数名のマリアと呼ばれる女性たちと共に、ゴルゴタの丘の上の十字架の出来事の目撃者となり、初代エルサレム教会の最初の信徒の一人になり、使徒パウロの働きを支えた妻と2人の息子(アレキサンデルとルポス)と共に、主の御業に仕えるキリスト者の生涯を歩んだのです。

 

 さて、私たちは今朝の御言葉の34節の半ばから終わりまでを改めて心に留めたいと思います。「人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。(35)民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。(36)兵卒どももイエスをののしり、近寄ってきて酢いぶどう酒をさし出して言った、(37)「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。(38)イエスの上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけてあった」。

 

 よくキリストの十字架を表現した西洋の絵画や磔刑像に「INRI」と書かれた札があることをご存じでしょうか?。これは今朝の38節にある「ユダヤの王」という意味のラテン語IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVMを略した文字です。当時のユダヤにおいては十字架の上に罪状書き()が掲げられたのですが、私たちはこの札によって、主イエスの罪名が「自分をユダヤの王であると自称(僭称)したこと」であったと知ることができるわけです。しかし、それなら逆に申して、私たち人間の罪名は「このかたを(主イエス・キリストを)全世界の真の王、王の王(The King of Kings)であると認めなかったこと」であることが明らかなのではないでしょうか。つまり、十字架の主の周りで「イエスの着物をくじ引きで分け合った」り、主イエスを「嘲笑い」「罵った」人々は、主イエス・キリストの十字架なくしては救われえなかった人々であるという一点において、ここに集うている私たちと全く同じ立場に立つ人間(罪人)なのです。

 

 アメリカの教会でよく歌われる讃美歌のひとつに“Where you There”(あなたもそこにいたのか)という有名な曲があります。わが国でも讃美歌第二編の177番に入っています。その歌詞を紹介しますと、このような内容の歌です。「彼らがわが主を十字架につけた時、あなたもそこにいたのではなかったか。彼らがわが主を十字架につけた時、あなたもそこにいたのではなかったか。おお、ときどきその問いに、私の魂は震える。彼らがわが主を十字架につけた時、あなたもそこにいたのではなかったか?」。(Were you there when they crucified my Lord? Were you there when they crucified my Lord? Oh! Sometimes it causes me to tremble, tremble, tremble. Were you there when they crucified my Lord?)

 

 ここで私たちを「あなたも」と呼び掛けているのは神ご自身です。私たちは主イエス・キリストの十字架を前にして中立であることはできないのです。ニュートラルであることはできないのです。かならず、応答をしなければなりません。レスポンスをしなければなりません。それが神に作られた「責任ある存在」としての私たちの基本的な姿です。ところが、私たちは十字架の主を前にしても、自分は無関係だ、自分はそこにいなかった、私はゴルゴタの丘の上になんかいなかったと、自己正当化を試みようとするのです。自分には十字架の主に対する責任なんかないと言い張ろうとするのです。つまり、私たちは今朝の御言葉に出てくる、主イエスの衣服をくじ引きで分けようとしている人々、あるいは主イエスを嘲笑い罵る人々と同じ立ち位置にいようとするのです。そこにも、私たちの罪の姿が鮮やかに現されているのではないでしょうか。

 

 そうではなく、どうか私たちは、十字架の主イエスから最後まで離れようとしなかった女性たち、そして無理やりに十字架を背負わされて主の十字架上の赦しと祝福の言葉を聴いたクレネ人シモンのように、ゴルゴタの十字架の主のもとに堅く立ち続ける者たちでありたいと思います。それこそ私たち一人びとりが、いま主なる神から「あなたもそこにいたのではなかったか」と問われているのです。主の十字架は私たちの罪の贖いのためです。罪とは私たちが神の外に出てしまうこと、神とは無関係なものとして、根拠なき自立性のもとに生きようとすることです。それならば、神は神の外に出てしまった私たちを救うために、神の外に出て下さったおかたなのです。それが、まことの神のお姿なのです。

 

 私は浄土真宗の高僧であられた花山信勝先生のもとで2年間、仏教学とサンスクリット語を学んだことがあります。そのとき、花山先生が私に言われた言葉を忘れることができません。それは、仏教の中には十字架が無いというのです。だから「縁なき衆生」すなわち救われえざる者が必然的に生じてくるというのです。これは逆に申しますなら、キリスト教の福音、使徒パウロの言う「十字架の福音」においては、信ずる人は全て救われるのであって、一人の例外もありえないのです。それは、真の神は、神の外に出てしまった私たちを救うために、みずから神の外に出て下さったおかただからです。100%救われざる者を100%救うために、神ご自身が神の外に出て下さった、それがゴルゴタの丘の十字架の出来事なのです。

 

 そこに、私たちの確かな、永遠の救いがあります。私たちの教会もまた、その十字架の主イエス・キリストの福音の上に建てられています。だからこそ、ここに集うている私たち全ての者が、いま、永遠の御国に国籍を持つ者たちとして、キリスト者の人生を歩む喜びと幸いを与えられています。朽ちるべき私たち、滅ぶべき私たち、神と無関係なものになってしまっていた私たちを救うために、主イエス・キリストは、神の外に出て下さったおかただからです。だからこそ私たちは、このおかたを「わが主、わが救い主、キリスト」とお呼びするのです。祈りましょう。