説    教           ホセア書1078節  ルカ福音書232731

                  「十字架の意味」 ルカ福音書講解〔207

                    2023・03・10(説教24102057)

 

 「(27)大ぜいの民衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちの群れとが、イエスに従って行った。(28)イエスは女たちの方に振りむいて言われた、「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。(29)『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』と言う日が、いまに来る。(30)そのとき、人々は山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出すであろう。(31)もし、生木でさえもそうされるなら、枯木はどうされることであろう」。

 

 主イエス・キリストが十字架を背負ってゴルゴタに続くヴィア・ドロローサ(悲しみの道)を歩みたもうたとき、石を投げて「十字架に架けろ」と叫んだ群衆たちとは別に、「大ぜいの民衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちの群れとが、イエスに従って行った」ことが今朝の27節の御言葉によってわかります。特に「悲しみ嘆いてやまない女たちの群れ」とあることは印象的です。この女性たちはおそらく、主イエスを心情的に慕っていた人々、いわば主イエスのファンであり「とりまき」であった女性たちだったのでありましょう。いや、それ以上に彼女たちは、主イエスや弟子たちの食事や洗濯や繕い物などを手伝ってくれていた、いわば「主イエスの協力者的立場にあった女性たち」であったと考えられるのです。事実、他の福音書を見ますと、この女性たちのことをも「弟子たち」と呼んでいる箇所がございます。

 

 ともあれ、このような女性の弟子たちが「悲しみ嘆いてやまない女たちの群れ」として、主イエスと共にゴルゴタの丘に登って行ったのでした。その途中で、主イエスは突然、彼女たちのほうを振り向いてこう言われたのです。今朝の28節以下です。「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。(29)『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』と言う日が、いまに来る。(30)そのとき、人々は山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出すであろう。(31)もし、生木でさえもそうされるなら、枯木はどうされることであろう」。

 

 これは、どういうことなのでしょうか?。まず、主イエス・キリストは、御自分のために涙を流したもうたことは一度もありませんでした。主イエスの涙はいつも、他者のために流されたものでした。ですから、このときも主は、御自分のためにではなく「むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい」とおっしゃったのです。それはなによりも、主イエス御自身の悲しみの御心に沿うべきことを彼女らにお求めになったのです。言い換えるなら、本当に悲しむべきなのは誰なのかということです。主イエスは、御自分のためにではなく、彼女たちのために、さらに申しますなら、全ての人の救いのために御心を砕かれ、祈りたまい、涙を流され、悲しんでおられるのです。その主イエスの御心を(悲しみを)どうかあなたがた自らの心として欲しいと、主イエスは彼女たちに求めておられるのです。

 

 それは、なぜでしょうか?。続く29節以下の御言葉に心を向けましょう。「(29)『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』と言う日が、いまに来る。(30)そのとき、人々は山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出すであろう。(31)もし、生木でさえもそうされるなら、枯木はどうされることであろう」。つまり、自分は生まれてこないほうが良かったと、それほどの悲しみをもって自分の存在を呪うほかないような苦難が来ると、主イエスは私たちにはっきりとおっしゃるのです。それは30節によりますなら「そのとき、人々は山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出す」ほどの恐ろしい苦難であるとおっしゃるのです。例えて言うなら、東京や横浜の人々が富士山に向かって「どうか我々の上に覆いかかって、我々を瞬殺してくれ!」と叫ぶほどの苦難であるとおっしゃるのです。

 

 そこで、こうしたことは、私たち人間存在にとって、とてつもなく不自然なことであり、考えられないほど不条理なことであり、いわば「あらずもがなのこと=決して起こってはならないこと」なのではないでしょうか?。ニーグレンというスウェーデンの神学者が「エロースとアガペー」という本の中でこういうことを語っています「人間に対して、あなたがたは善良でありなさいという教えが、人間にとって有益であったことは一度もない」。これは一見大きな逆説のようですが、このニーグレンの言葉を今朝の御言葉に当てはめますと、その意味がよくわかるのではないでしょうか。

 

つまり、私たち人間存在にとって、とてつもなく不自然なことであり、考えられないほど不条理なことであり、いわば「あらずもがなのこと=決して起こってはならないこと」においてこそ、私たちは自分がいかに、救いに対して無力な存在であるかを知らしめられるのです。言い換えるなら「イエスさまがかわいそう」という涙に留まっているだけでは、私たちに本当の救いはないのです。それこそニーグレンが言う「あなたがたは善良でありなさいと単純に訴える教え」に留まることであり、神ではなく自分の中にこそ救いがあると考えることだからです。私たちが本当に嘆くべきなのは、私たちが常に罪と死に捕らわれた存在であり、その罪と死の支配に対して、私たちが全く無力であるという事実に対してではないでしょうか。

 

 そこで、どうか今朝のこの御言葉によって、このことをしっかりと心に刻む私たちでありたいと思います。まさに、罪と死の支配に対して全く無力でしかない私たち、つまり、自分自身のどこにも救いの根拠を微塵も持ちえない私たちを救うために、神の御子イエス・キリストみずから、あの呪いの十字架を背負ってゴルゴタへの道を歩んで下さり、全く無力なお姿におなりになって、私たちのために、贖いの死を死んで下さったという事実です。それこそが福音の事実です。キリスト教の福音は「救われるべき人は救われる」あるいは「救いの可能性のあるところに救いはある」ということではないのです。その真逆なのです。むしろ「救いの無いところにこそ救いがある」「救いの可能性の無いところにこそ救いがある」というのがキリスト教の福音の本質なのです。

 

 今朝の御言葉の最後の31節に、主イエスはこのようにおっしゃっておられます。「もし、生木でさえもそうされるなら、枯木はどうされることであろう」。これはバッハのマタイ受難曲の中でも歌われている御言葉です。生木と枯木の違いは、外見ではよくわかりません。しかし枯木はある日突然倒れることがあります。生命が無いからです。それと同じように、たとえ信仰という生命があろうとなかろうと、つまり、生木であっても枯木であっても、主が私たちに求めておられることは、十字架の主イエス・キリストにしっかりと繋がって生きることです。どうか考えてみて下さい、十字架の出来事以上にとてつもなく不自然なこと、考えられないほど不条理なこと、あらずもがなのこと=決して起こってはならないことは、ないのではないでしょうか。それは、永遠にして創造主なる神と本質を同じくしたもう御子イエス・キリストが、言い換えるなら神ご自身が、十字架上で死なれたという出来事だからです。

 

 ゴルゴタの丘の上での十字架の出来事こそ、あらゆる不条理の中での最大の不条理であります。神は、死なないからこそ神なのです。死んでしまうものを、十字架にかけられてしまうものを、墓に葬られてしまうものを、人はもはや「神」とは呼ばないのではないではしょうか。主イエス・キリストは、永遠の神の独子であられながら、神の外に出てしまった私たちを救うために、神の外に出て下さったおかたなのです。救いのありえなかった私たちを救うために、救いのありえない十字架の死を死んで下さったおかたなのです。罪によって「在るべき所におらず、在るべからざる所にいる」私たちを救うために「在るべからざる」不条理の中に、つまり「神の御子の十字架の死と葬り」という究極の不条理の中に、御自身の身を置いて下さったおかたなのです。

 

 まさにそのようにして、主イエス・キリストは、救いのありえなかった私たちを救って下さいました。百パーセント救われえなかった私たちを百パーセント救って下さるために、主はあのゴルゴタの丘の上で、呪いの十字架を引き受けて下さり、御自身の死によって私たちを罪と死の縄目から解放し、贖って下さり、救いと自由と平安を与えて下さったのです。それこそ、十字架の意味なのです。それは、私たちの救いそのものなのです。ただ十字架の主イエス・キリストにのみ、私たち人間の唯一まことの救いがあるのです。私たちはその救いの御業に与る僕たちとせられ、十字架と復活の主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会に連なり、御言葉の糧に豊かにあずかりつつ、礼拝者として歩み続けてゆく幸いと光栄を与えられています。その幸いと光栄を感謝し、主の御名を讃美しつつ、永遠の御国への旅路を心を高く上げて歩み続ける私たちであり続けて参りましょう。祈りましょう。