説    教          イザヤ書531112節  ルカ福音書231325

                  「主イエスとバラバ」 ルカ福音書講解〔205

                    2023・02・25(説教24082055)

 

 「(13)ピラトは、祭司長たちと役人たちと民衆とを、呼び集めて言った、(14)「おまえたちは、この人を民衆を惑わすものとしてわたしのところに連れてきたので、おまえたちの面前でしらべたが、訴え出ているような罪は、この人に少しもみとめられなかった。(15)ヘロデもまたみとめなかった。現に彼はイエスをわれわれに送りかえしてきた。この人はなんら死に当るようなことはしていないのである。(16)だから、彼をむち打ってから、ゆるしてやることにしよう」。〔(17)祭ごとにピラトがひとりの囚人をゆるしてやることになっていた。〕(18)ところが、彼らはいっせいに叫んで言った、「その人を殺せ。バラバをゆるしてくれ」。(19)このバラバは、都で起った暴動と殺人とのかどで、獄に投ぜられていた者である。(20)ピラトはイエスをゆるしてやりたいと思って、もう一度かれらに呼びかけた。(21)しかし彼らは、わめきたてて「十字架につけよ、彼を十字架につけよ」と言いつづけた。(22)ピラトは三度目に彼らにむかって言った、「では、この人は、いったい、どんな悪事をしたのか。彼には死に当る罪は全くみとめられなかった。だから、むち打ってから彼をゆるしてやることにしよう」。(23)ところが、彼らは大声をあげて詰め寄り、イエスを十字架につけるように要求した。そして、その声が勝った。(24)ピラトはついに彼らの願いどおりにすることに決定した。(25)そして、暴動と殺人とのかどで獄に投ぜられた者の方を、彼らの要求に応じてゆるしてやり、イエスの方は彼らに引き渡して、その意のままにまかせた」。

 

 私たちは今朝与えられたこのルカ伝2313節の御言葉において、主イエスの十字架への道の前奏曲として現れる3人目の人物を見ることになります。その名はバラバといい、19節にありましたように「都(エルサレム)で起った暴動と殺人との罪で、獄に投ぜられていた者」でした。ヘロデ・アンティパス王のもとから主イエスを再び送り返されたピラトは、主イエスに向かって「十字架にかけろ」と激高して騒ぎ立っている群衆に対して3度も「私はこの人のことを調べたが、彼は何ら死に当たるようなことはしていない」と言いました。せいぜい鞭打ちの刑で穏便に済ませるべきではないかと持ち掛けたのです。(もっとも、当時の鞭打ちの刑は金属の鋭い棘のついた鞭で数十回も打ち叩くものでしたから、それで生命を落とす囚人も少なからずいました)

 

とにかくポンテオ・ピラトは群衆に向かって3度も「この人(ナザレ人イエス)は、いったい、どんな悪事をしたのか。彼には死に当る罪は全くみとめられなかった。だから、むち打ってから彼をゆるしてやることにしよう」と言ったのです。ところが今朝の23節にございますように、群衆たちは「ところが、彼らは大声をあげて詰め寄り、イエスを十字架につけるように要求した。そして、その声が勝った」のでした。それこそ「民衆の声は神の声=Vox Populi, Vox Dei」でございまして、ローマ法を重んじる総督ピラトはその声を無視するわけにはいかなくなった。そこでピラトは致しかたなく25節にあるように「暴動と殺人とのかどで獄に投ぜられた者の方を、彼らの要求に応じてゆるしてやり、イエスの方は彼らに引き渡して、その意のままにまかせた」のでした。つまり、主イエスを十字架刑へと引渡す代わりに、暴動と殺人の罪で服役していたバラバという男を赦免することにしたわけです。それが今朝の御言葉の状況的な内容であります。

 

 さて、そこで私たちは改めて、このバラバという人物に注目してみたいと思うのです。みなさんはスウェーデン出身の詩人かつ劇作家であり、1951年にノーベル文学賞を受賞したラーヴァクヴィスト(Pär Fabian Lagerkvist 1891-1974)という人をご存じでしょうか?。このラーグァクヴィストの作品に「バラバBarabbas 1950」という短編小説があります。私はこの作品に農学校の生徒であった17歳の時に出会い、それこそ魂が震えるような感動をもって読みました。ラーヴァクヴィストはこの小説においてバラバという男を「主イエスが自分の身代わりになって死んで下さったおかげで救われたことを自覚した最初の人物である」と規定しています。まさしくそのとおりではないでしょうか。バラバは、自分がそれを望んだか否かにかかわらず、あるいは、信仰があるか無しかにさえかかわらず、まさにラーヴァクヴィストが語ったように「主イエスが自分の身代わりになって死んで下さったおかげで救われたことを自覚した最初の人物」なのです。

 

 バラバは主イエスの身代わりになって罪を赦され、牢屋から出されました。最初は、どうして自分が赦されて牢屋から出されたのか、よく状況が呑み込めていなかったバラバでしたが、エルサレムの街をうろついている間に、遠くのほうから偶然、ゴルゴタの丘の上で十字架にかけられて死なれた主イエス・キリストのお姿を目撃しました。バラバは「そうか、あの人が私の身代わりになってくれたんだな」とはじめて理解しました。それからバラバは何人もの「主イエス・キリストを救い主と信じる人々」に出会い、彼らの秘密の集会や礼拝に招かれて、そこで話をして欲しいと頼まれますが、自分にはとてもそんなことはできないと言って断り、逃亡生活をするのです。世間から身を隠そうとしたバラバは、知人が誰もいない鉱山労働者として真っ暗な炭鉱の中で働きますが、そこでも一人のクリスチャンに出会い、洗礼を受けるようにと勧められます。しかしバラバはそこでも頑なにクリスチャンになることを拒み続けます。やがてバラバは炭坑内の事故で死ぬのですが、その死の間際に「神よ、私の魂をあなたに委ねます」と言って息絶えるのです。

 

 ラーヴァクヴィストがこの短編小説で真正面から向き合っているテーマは「現代人にとっての救いとは何か」という問題にほかなりません。バラバは(先ほども申しましたように)自分の身代わりに主イエスが死なれたことを自覚した最初の人でした。しかし彼は洗礼を受けてクリスチャンになることなしに、誰にも看取られぬまま、暗い炭鉱の中で孤独の内に死ぬのです。そして死の間際に「神よ、私の魂をあなたに委ねます」と呟くように言うのです。私はスウェーデン語はわかりませんが、なんとなくドイツ語に似ていますから、バラバの最後の言葉の語感は理解できます。これは、どちらかというと投げやりでぞんざいな言葉です。ですから日本語訳では「神さま、お前さんに任せるよ、おれの魂を」と訳されています。ラーグァクヴィストはそこでこそ私たち現代人に向かって問うのです。「あなたはこのバラバが救われたと思いますか?」と。そして同時にその問いは「もしもこのバラバに救いが無いのなら、あなたにも救いは無いのではないだろうか?」という問題意識へと繋がってゆきます。まさに「現代人にとっての救いとは何か」という大切な問題を、ラーグァクヴィストは「バラバ」という小説を通して私たちに語りかけているのです。

 

 そこで、私は牧師ですから、ラーグァクヴィストとは少し違った角度からこのテーマを捕らえています。ラーグァクヴィストは文学者ですから、彼が語る(書く)言葉はアンスロポロジー(人間学)です。しかし牧師たる神学者が語る言葉はセオロジー(神学)ですから、そこにはおのずと大きな相違があるはずです。そこで私は、バラバが主イエスをどのように見たか(解釈したか)ではなく、主イエスがバラバのことをどうご覧になったかが最も大きな問題だと思います。その点はラーグァクヴィストは全く触れていません。だからラーグァクヴィストの言葉は人間学に留まっています。しかし最も大切なことは、繰返し申しますが、主イエス・キリストが、バラバをどのようにご覧になり、彼にどのような言葉を語っておられるか、ということではないでしょうか。

 

 「民衆の声は神の声」が激高して「イエスではなくバラバを(許せ)」とピラトに再三要求していたとき、主イエス・キリストは、その声をわがことのように、否、それ以上にバラバのために、喜び、バラバを祝福して下さったに違いありません。主イエス・キリストは十字架への道を歩んでおられるのです。もしもバラバが「主イエスが自分の身代わりになって死んで下さったおかげで救われたことを自覚した最初の人物」であるのなら、ここに集うている私たちもまた、バラバと全く同じ立場に立っているのです。そして、主イエス・キリストがその私たちのことを十字架上で祝福して下さり、私たちの救いのために御自身の生命を献げて下さったのと同じように、主イエス・キリストは、バラバの救いをも祈って下さったに違いないのです。神の永遠の御子の祈りは、神ご自身の御意思です。それならば、バラバの救いは神ご自身の御意思そのものではなかったでしょうか。

 

 私たちは行為によってではなく、ただ信仰によって救われる、それは「信仰によって神に自分を明け渡す者を、神は絶対に救って下さる」という意味に他なりません。それならば、バラバが人生の最後に「神よ、私の魂をあなたに委ねます」と呟いた、その祈りをも、主なる神は喜び受け入れて、バラバを永遠の御国に迎え入れて下さったのではないでしょうか。その意味では、ラーグァクヴィストの問いは、実は聖書の中に、既にはっきりとした答えが示されているのです。どうか私たちは最後に、ローマ書321節から24節までをお読みしたいと思います。「(21)しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。(22)それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。(23)すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、(24)彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」。まさにこの神の義によって、主イエス・キリストにおける神の愛によって、私たちは既に救いに入れられているのです。このことを喜び、キリストの僕・主の弟子として新しい一週間を歩んで参りたいと思います。祈りましょう。