説    教          ハバクク書11617節  ルカ福音書23812

                  「主イエスとヘロデ」 ルカ福音書講解〔204

                    2023・02・18(説教24072054)

 

 「(8)ヘロデはイエスを見て非常に喜んだ。それは、かねてイエスのことを聞いていたので、会って見たいと長いあいだ思っていたし、またイエスが何か奇跡を行うのを見たいと望んでいたからである。(9)それで、いろいろと質問を試みたが、イエスは何もお答えにならなかった。(10)祭司長たちと律法学者たちとは立って、激しい語調でイエスを訴えた。(11)またヘロデはその兵卒どもと一緒になって、イエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はなやかな着物を着せてピラトへ送りかえした。(12)ヘロデとピラトとは以前は互に敵視していたが、この日に親しい仲になった」。

 

 ポンテオ・ピラトの邸宅から連れ出された主イエスは、次にユダヤの王ヘロデのところに連行されました。ヘロデは本名をヘロデ・アンティパスといい、全イスラエルの王であった父ヘロデ大王の跡を継いで、ガリラヤ地方の王となった人物でした。ただし、ヘロデの主権はローマ帝国の認可に基づくものでしたから、その意味ではヘロデは先のポンテオ・ピラトと同様、ローマ皇帝の家臣の一人であったと言うことができます。とまれ、今朝の8節を見ますと「(8)ヘロデはイエスを見て非常に喜んだ。それは、かねてイエスのことを聞いていたので、会って見たいと長いあいだ思っていたし、またイエスが何か奇跡を行うのを見たいと望んでいたからである」とございますように、ヘロデにとっては待ち望んでいた主イエスとの面会が思わぬ形で実現したわけで、上機嫌で主イエスを自邸に迎え入れたわけであります。

 

 ところで、このヘロデ王は、非常に残忍な暴君でした。今朝あわせてお読みしたハバクク書の116節と17節は、ヘロデの性格をよく表している聖句として、当時のイスラエルでもたびたび引き合いに出されていたものです。「(16)それゆえ、彼はその網に犠牲をささげ、その引き網に香をたく。これによって彼はぜいたくに暮し、その食物も豊かになるからである。(17)それで、彼はいつまでもその網の獲物を取り入れて、無情にも諸国民を殺すのであろうか」。これを見てもわかりますように、ヘロデ王の性格は、@残忍であり、A圧政を好み、B贅沢三昧の暮らしをし、C殺戮を日常的に行っていた、そのような無類の暴君であったのです。かつてソ連にスターリンという独裁者がいました。猜疑心が異常に強く、周囲は全て敵だと見なしていました。それに似ているかもしれません。

 

 さて、このヘロデ王は、主イエスが自分の願うような奇跡の御業を見せてくれないことに失望し、かつ苛立ちました。このことは逆に申しますなら、このときの主イエスが全く無力なお姿であられたことを示しています。父なる神に全てを委ねておられた主イエスは、全ての人の罪を贖うための十字架への道を歩んでおられるのです。しかしヘロデの眼には(もちろんヘロデには信仰などありませんでしたから)主イエスはただの無力な人にしか見えませんでした。最初のうちはヘロデは、なんとかして主イエスに口を開かせようとしていろいろと質問を投げかけたのですが、主イエスは終始沈黙なさったままでした。今朝の9節に「(9)それで、いろいろと質問を試みたが、イエスは何もお答えにならなかった(文語訳では「かくて多くの言をもて問ひたれど、イエス何をも答へ給はず)」とあるとおりです。

 

 そこでヘロデはお得意の「脅しによる陽動作戦」に打って出ます。10節と11節をご覧ください。「(10)祭司長たちと律法学者たちとは立って、激しい語調でイエスを訴えた。(11)またヘロデはその兵卒どもと一緒になって、イエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はなやかな着物を着せてピラトへ送りかえした」。これはどういうことかと申しますと、祭司長や律法学者たちにヘロデは「(主イエスに対して)なにをしてもよろしい」と無制限の暴力を許可したのです。そればかりではなく11節にありますように、自分自身も兵士たちと一緒になって「イエスを侮辱したり嘲弄したりした」のでした。そしてそのあげく「はなやかな着物を着せてピラトへ送りかえした」というのです。たぶん紫の衣を着せて、ということでしょう。これは、主イエスを死刑に処する権限がただローマの総督たるポンテオ・ピラトにのみあったからです。ようするにヘロデはピラトに対して「この者を送り返しますから、どうぞ十字架の刑に処して下さい」と願い出たわけです。

 

 そこで、いささか滑稽にも感じられます言葉が12節に記されています。「(12)ヘロデとピラトとは以前は互に敵視していたが、この日に親しい仲になった」というのです。おしなべて、独裁者の敵は独裁者であり、権力者の敵は権力者であり、政治家の敵は政治家なのです。だからピラトとヘロデは、日ごろは仲違いをしていました。犬猿の仲であり、共に天を戴かぬ仇敵同士でした。ところが、主イエス・キリストという共通の敵ができたことによって、この両者はにわかに「親しい仲になった」というのです。実はこういうところにも、私たち人間の罪の姿が現れているのではないでしょうか。ようするに、自分さえ良ければそれで良いという姿勢なのです。なにが真理で、なにが偽りなのか、なにが正しくて、なにが間違いなのか、ではなくて、とにかく自分にとって有利なことか否かが人生の価値基準なのです。だからキリストを敵とすることによって、ピラトとヘロデは急に仲良しになったのです。「敵の敵は味方」という論理ですね。

 

 言い換えるなら、まさにこの自己中心主義と「敵の敵は味方」という論理こそが、現実世界に絶え間なき戦争と混乱を引き起こし続けている元凶なのではないでしょうか。これを「罪に根差した自己中心の論理」と言い換えることもできるでしょう。まさにピラトとヘロデを急接近させた「罪に根差した自己中心の論理」が、現代世界においても国際政治の力学として作用しているがゆえに、この地球上に今も絶え間なく、数知れぬ混乱と悲惨、分裂と戦争が引き起こされているのではないでしょうか。その意味では現代世界は今もなお、ピラトとヘロデの支配下に置かれていると言えるのではないでしょうか。

 

私がエルサレムを訪ねた1992年のことです。時あたかもヘブライ大学の考古学調査チームがヘロデ・アンティパスの墓を発見したという知らせがありましたので、私はその場所を見に行きました。それはエルサレム旧市街の北東にあるキドロンの谷の一角にひっそりと佇む石塔でした。私は日本人だからでしょうか、その墓のそばに行って言い知れぬ無常感を感じました。どんなに権威権勢を誇った独裁者といえども、その墓の場所さえ数千年間不明のままだったのです。

 

 しかし、主イエス・キリストは、ヘロデに代表される、人間の罪がもたらす暴力と破壊のさなかにあって、最も無力なおかたとして(すなわち、ただ父なる神の御心に従順にお従いになる神の御子キリストとして)あのゴルゴタの十字架への道を、黙ってお一人で歩んで下さいました。私たち人間は、自分ただ一人の罪を背負うことさえできない存在です。まさに無上の世界に生きるほかなき存在です。しかし主イエス・キリストは、そのような私たちの罪を、しかも全世界の全ての人の罪を一身に担われて、あのゴルゴタの十字架への道を歩まれ、そして十字架において、御自身の生命を注ぎ尽くして、私たち全ての者の贖いを成し遂げて下さったのです。

 

 その主イエス・キリストの墓を、私はエルサレムで訪ねました。聖墳墓教会です。墓の入口から4人のドイツ人修道女たちと一緒に入りましたら、金色のプレートにギリシヤ語でルカ伝245節の御言葉が書かれていました。「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中に訪ねているのか。主はここにはおられない。よみがえられたのだ」。そうです、主イエス・キリストは、私たちの罪を担って十字架で死んで下さり、私たち全ての者の救いを実現して下さり、墓に葬られたもうて、三日目に復活して下さった救い主なのです。この主イエス・キリストは、いま、聖霊によって現臨しておられる現在形の救い主として、私たちと共にいて下さり、救いの御業を現わし続けていて下さいます。ここに集うている私たち一人びとりがその証人です。私たちはピラトとヘロデの支配原理によって歩むのではなく、ただ十字架の主のみを仰ぎ、十字架の主の僕たちとして歩み続ける者たちです。

 

 終わりにローマ書831節から39節までを心に留めましょう。「(31)それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。(32)ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。(33)だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。(34)だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。(35)だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。(36)「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。(37)しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。(38)わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、(39)高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」。祈りましょう。