説    教                 箴言142節  ルカ福音書2317

                  「主イエスとピラト」 ルカ福音書講解〔203

                    2023・02・11(説教24062053)

 

 「(1)群衆はみな立ちあがって、イエスをピラトのところへ連れて行った。(2)そして訴え出て言った、「わたしたちは、この人が国民を惑わし、貢をカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと、となえているところを目撃しました」。(3)ピラトはイエスに尋ねた、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」とお答えになった。(4)そこでピラトは祭司長たちと群衆とにむかって言った、「わたしはこの人になんの罪もみとめない」。(5)ところが彼らは、ますます言いつのってやまなかった、「彼は、ガリラヤからはじめてこの所まで、ユダヤ全国にわたって教え、民衆を煽動しているのです」。(6)ピラトはこれを聞いて、この人はガリラヤ人かと尋ね、(7)そしてヘロデの支配下のものであることを確かめたので、ちょうどこのころ、ヘロデがエルサレムにいたのをさいわい、そちらへイエスを送りとどけた」。

 

 本日よりルカ伝の23章に入って参ります。陸上競技のマラソンに譬えて申しますなら、いよいよゴルゴタの十字架へと向けてゴール間際の40キロ地点を通過したもう主イエスのお姿を私たちは観ることになるのです。この23章の冒頭において、私たちはこのルカ伝で2度目にポンテオ・ピラトという人物の名に接することになります。最初に出てきたのは131節においてでした。それは数人のガリラヤ人たちが主イエスのもとに来て「ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた」と記されていたことです。このことからもわかりますように、ピラトは信仰を持たない (いわば神をも恐れぬ) 大胆不敵な人物として描かれています。

 

 ところで、私たちは毎週の礼拝において使徒信条を歌うたびに、実はこのピラトの名に接しているわけです。それは「(主イエス・キリストは) ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け…」と告白されていることです。ずいぶん前のことですが、あるかたから私は思いがけない質問を受けたことがあります。そのかたが言いますには「どうして使徒信条ではピラトさん一人に罪を押し付けているのですか?」と。私は少し驚きまして「どうしてそう思われるのですか?」と訊き返しましたら「だって、ピラトさんが可哀想じゃありませんか」と言われたのには二度びっくりしました。

 

 もちろん使徒信条は、主イエスを十字架に追いやった罪をポンテオ・ピラトただ一人に押し付けているのではありません。そうではなくて、主イエスを十字架に追いやった罪はもちろん私たち全ての者の罪であり、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とは「(主イエス・キリストは) ピラトがユダヤの総督であった時に十字架におかかりになった」という歴史的事実を物語っているのです。そのことからもわかりますように「ポンテオ」とは「総督」という意味です。つまり、ピラトはローマ帝国の高官であり皇帝の命を受けてユダヤの総督として派遣された人でした。ユダヤの総督になることは、いかに皇帝の命令によるとはいえ、ローマの高官たちにとっては左遷に等しい貧乏籤だったようで、みんな嫌がったようです。しかし5年ないしは6年、長くても10年、なんとか無事に務めて本国に帰ったなら、それなりの官位栄達が約束されていたので、それだけを頼みにして嫌々ながらユダヤの総督を務めたというのが実情でありました。

 

 さて、主イエスを審くためにユダヤの七十人議会に集まった人々は、主イエスを十字架にかけるために(つまり主イエスを極刑に処するために)ポンテオ・ピラトの官邸に連れて行ったのでした。それは、当時のユダヤはローマの植民地であったため、囚人を死刑にする権限はただ総督にのみあったからです。それが今朝の1節から3節までの御言葉です。「(1)群衆はみな立ちあがって、イエスをピラトのところへ連れて行った。(2)そして訴え出て言った、「わたしたちは、この人が国民を惑わし、貢をカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと、となえているところを目撃しました」。(3)ピラトはイエスに尋ねた、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」とお答えになった」。

 

 ピラトにしてみれば、これは自分の出世に影響しかねない厄介な仕事でした。できることなら穏便に済ませたかった。だから4節を見ますと、ピラトは祭司長や群衆たちに「わたしはこの人になんの罪もみとめない」と語っています。しかし当然のことながら、それではユダヤ人たちの騒ぎは少しも収まりませんでした。どうぞ5節以下をご覧ください。「(5)ところが彼らは、ますます言いつのってやまなかった、「彼は、ガリラヤからはじめてこの所まで、ユダヤ全国にわたって教え、民衆を煽動しているのです」。(6)ピラトはこれを聞いて、この人はガリラヤ人かと尋ね、(7)そしてヘロデの支配下のものであることを確かめたので、ちょうどこのころ、ヘロデがエルサレムにいたのをさいわい、そちらへイエスを送りとどけた」。

 

 つまり、ピラトは、主イエスがナザレ出身のガリラヤ人であると判断して、それならガリラヤの王でもあるヘロデのところに連れて行って審いてもらいなさい、私にはこの人を審く権限はないからと言って、いわゆる政治的な責任転嫁をしたわけです。こんな夜中に起こされて迷惑だとも感じていたでしょう。とにかく「自分にはもう何もできないから、イエスをヘロデのところに連れて行って、ヘロデの指示を仰ぎなさい」と言ったわけです。このことからもわかりますように、ピラトという人物は、ある意味において非常に洗練された政治的感覚の持主でした。

 

 まさにピラトの持つこの洗練された政治的感覚に触れて、ヨーロッパ文明全体を鋭く批判した人がいました。それはカール・レヴィット(Karl Löwith)というドイツ生まれのユダヤ人の哲学者です。それは彼の文明批評の論文集に収められた「キリスト教的紳士とは何か?」(Was sind die christlichen Herren?)という論文です。この論文の中でレヴィットは、いわゆるキリスト教的ヨーロッパの理想的な人物像とされている「キリスト教的紳士」(Christlichen Herren)の問題点を鋭く浮き彫りにするのです。レヴィットはこのように語っています。「ではここで、私は諸君に一つの問いを投げかけたい。聖書の中に、諸君がキリスト教的ヨーロッパの理想的人物像として崇拝する“キリスト教的紳士”は存在するのか?」この答えはなんだと思いますか?。レヴィットはこう答えるのです。「そうだ、聖書の中に“キリスト教的紳士”はただ一人存在する。それはポンテオ・ピラトである」。

 

 これは恐ろしいほど迫力に満ちたヨーロッパ文明批判です。イエス・キリストでも、パウロでも、ペテロでも、ヨハネでもない。実はヨーロッパ文明において理想像とされてきた「キリスト教的紳士」はポンテオ・ピラトの姿ではないかと、レヴィットは語るのです。そして、これは実は、ヨーロッパ文明の問題だけにとどまりません。私たちはどうでしょうか?。私たちは日本人だから、このレヴィットの問いから自由なのでしょうか?。そうではないと思います。むしろ私たちこそ、レヴィットが批判したヨーロッパ文明にもまさって、主イエス・キリストを十字架へと追いやった罪にまみれた存在としてしか生きえていないのではないか。むしろ私たちこそ、ポンテオ・ピラトのような人間を理想像としているのではないか。洗練された政治的感覚を持ち、自分の手を汚すことなく難しい問題を処理し、やがて故国に戻れば官位栄達が約束されていて、平和で楽しい老後が待っている、そのような生活こそ「キリスト教的紳士」の生活だと考えているのではないか。

 

 私たちの葉山教会を30年間牧会して下さった宮崎豊文牧師が「さけび」という機関誌の中で繰返し語っている言葉があります。それは当時の葉山教会の信徒一人びとりに対して「諸君はすべからく、もっと泥臭いキリスト者であるべし」という言葉です。洗練されたキリスト者なんか要らないと宮崎牧師は語るのです。そうではなく、いま主が求めておられるのは、愚直なまでにひとすじに、馬鹿正直に、キリストの弟子、神の僕になりきることのできる「泥臭いキリスト者」ではないのか。言い換えるなら、自分の理屈や考えが第一ではなく、いつも御言葉が第一である、十字架のキリストが第一である、導きたもう聖霊が第一である、そのような「泥臭いキリスト者」に私たちはなりえているだろうかということです。

 

 今朝、併せてお読みした箴言142節にも、このようにございました。「(2)まっすぐに歩む者は主を恐れる、曲って歩む者は主を侮る」。私たちはどちらなのでしょうか?。主を恐れてまっすぐに、泥臭く、愚直に歩む真のキリスト者でありえているのか?。それとも、自分の考えや価値観に拘泥して、くるくると器用に道を曲がる、洗練されたキリスト教的紳士になっていることはないでしょうか?。まさにそのことが、今朝の御言葉を通して鋭く問われているのではないでしょうか。私たちが生きるキリスト者の道は、ポンテオ・ピラトのような洗練されたキリスト教的紳士の道ではなく、主を三度も裏切った罪を嘆いて暗闇の中で涙を流し、まさにその悔改めの中から、ただ主の御赦しと憐みとによって新たにされ、立ち上がらしめられた、泥臭いキリスト者の道ではないでしょうか。

 

 忘れてならないことは、主イエス・キリストはいま、私たち全ての者の救いのために、罪の贖いと永遠の生命のために、十字架への最終アプローチにさしかかろうとしておられるのです。主はいま、私たち全ての者のために、あのゴルゴタの呪いの十字架を背負いたもうのです。どうか私たちは、その十字架の主を仰ぎ、十字架の主を信じ、十字架の主に仕え、十字架の主にお従いする、まっすぐな、泥臭い、愚直なまでに真実な、キリスト者たちでありたいと思います。そのようなキリスト者の群れとして、この葉山の地で、ただ十字架の主イエス・キリストによる、唯一の真の救いを宣べ伝えて参りたいと思います。祈りましょう。