説    教              詩篇14214節 ルカ福音書226365

                 「主イエス打擲せらる」 ルカ福音書講解〔201

                    2023・01・28(説教24042051)

 

 「(63)イエスを監視していた人たちは、イエスを嘲弄し、打ちたたき、(64)目かくしをして、「言いあててみよ。打ったのは、だれか」ときいたりした。(65)そのほか、いろいろな事を言って、イエスを愚弄した」。私たちが主イエス・キリストの公生涯(地上における御生涯)について思い巡らしますとき、しばしば決定的に想像力が欠如していると言わざるを得ないことがあるのではないでしょうか。それは、主イエス・キリストが十字架においてもそうですけれども、十字架にかけられる前に、人々によっていかに手ひどく打擲せられたかという事実であります。「打擲」という漢字は「むごたらしく打ち叩く」という意味です。まさに今朝のルカ伝2263節以下の場面において、主イエスは人々によって惨たらしく打ち叩かれたもうたのです。

 

 今朝の63節を見ますと「イエスを監視していた人たちは」とございますから、それは大祭司カヤパの邸宅の中庭における出来事であったということがわかります。おそらくそれらの人々の中には、イスカリオテのユダの手引きによって主イエスを捕らえるためにゲッセマネの園に来た人々も含まれていたに違いありません。そのほかにも、大祭司カヤパの邸宅に集まって来ていたパリサイ人や律法学者や祭司たちも加わっていたことでありましょう。ともあれそうした雑多な人々が、主イエスに対する私憤を晴らす機会を得たかのごとくに、主イエスに対して罵り、激しく打ち叩き、さらには64節にありますように「(主イエスに)目かくしをして、「言いあててみよ。打ったのは、だれか」ときいたりした」のでした。続く65節には「そのほか、いろいろな事を言って、イエスを愚弄した」と記されています。

 

 人間は、言わずと知れた社会的な存在でありますけれども、群集心理と申しますか、ある共通の感情を持った群れが突然暴走を起こすことがある。まるで連鎖反応が起こったかのごとくに、理性と規律を失った無法集団と化して、プリミティヴな暴力行為を平気で仕出かすことがあるのです。このあたり、人間の社会性というものは、サル山のボス猿に媚びを売って集団行動に移るサルの群れと基本的に変化していないのではないでしょうか。いま世間を騒がせております自民党の派閥問題にも、そのような原始的な集団心理が現れているように思うのです。昔から「寄らば大樹の陰」と申しますけれども、この「ボスに従っておりさえすれば自分の身は安泰である」という集団心理、それはあんがい猿人類ピテカントロプスの時代から変わっていない人間の悲しき習性なのかもしれません。

 

 話は変わりますが、皆さんは「イーゼンハイムの祭壇画」と呼ばれる、キリストの十字架を描いた祭壇画(プロテスタント教会の説教壇の近くに置かれたキリスト磔刑画)があるのをご存じでしょうか?。これはドイツの宗教画家マティアス・グリューネバルトによって、1512年から1516年にかけて実に4年の歳月をかけて描かれたものです。数百年もの間、アルザスのコルマールの近郊にある聖アントニウス修道院の礼拝堂に置かれていましたが、フランス革命による破壊を避けるために1852年に修道院からコルマールのウンターリンデン美術館に移され、現在では同美術館に常設展示されていて誰でも観ることができます。この「イーゼンハイムの祭壇画」に描かれた十字架のキリストは、全身が激しく打擲された傷跡を示し、青黒く腫れあがった主の御身体には無数の棘が刺さっています。見る者を戦慄させるほどの惨たらしさがそこにあります。しかし、現実の主の御身体にはもっと生々しく激しい打擲の傷跡が刻まれていたのではないでしょうか。

 

 ところで、この「イーゼンハイムの祭壇画」の、キリストの右側にはバプテスマのヨハネが描かれているのですが、彼は右手の人差指でキリストの御傷を指し示しています。そしてその傍らにラテン語でillum oportet crescere me autem minui(彼は必ず栄え、わたしは衰える)と記されています。17世紀半ばのある吹雪の日に、旅路を見失った一人の青年が聖アントニウス修道院に一夜の宿を求めました。彼の名はニコラス・ツィンツェンドルフ。ボヘミアの名門貴族の出身であり、名利栄達を求めて法学部に学んでいた大学生でした。彼はこのイーゼンハイムの祭壇画を見て、魂が打ち砕かれる経験をしました。回心を経験したのです。特にラテン語の聖句が彼の心を揺り動かしました。彼はただちに大学に退学届けを提出し、神学校に入って牧師となる道を歩みました。やがてツィンツェンドルフはボヘミアにヘルンフート兄弟団というキリスト教共同体を組織しました。それは改革派教会の最も美しい理想形であると言われ、全ヨーロッパにもたらした精神的・霊的影響は計り知れないものがあるのです。

 

 そこで、まさに今朝、私たちも問われているのではないでしょうか。主イエス・キリストは、まさしく私たちのために、人々から激しい打擲を受けたもうたのです。そしてもうひとつ忘れてなりませんことは、主イエス・キリストを激しく打擲したのは、ほかでもない私たちと同じ人々でした。太平洋戦争下のレイテ島で米軍との激戦を経験した大岡正平という作家が「わがこころのよくてころさぬにはあらず」という親鸞の歎異抄の言葉を引用していますが、まさに私たちこそ「わがこころのよくてころさぬにはあらず」なのではないでしょうか。もしもそこに、大祭司カヤパの中庭に、私たちもいたとしたならば、私たちは2つの行動しか取りえなかったことでしょう。すなわち、主イエスを激しく打擲した人々の輪に加わっていたか、あるいは、主イエスを3度も否認したペテロのように、外の暗い闇の中でとめどもなく悔改めの涙を流し続けたか、そのいずれでしかありえない私たちなのではないでしょうか。

 

 そして最も大切なことは、私たちがそのどちらの立場に身を置くにしても(それ以外の立場にありえない私たちなのですが)まさにその私たちのためにこそ、主イエス・キリストは打擲されたもうたという事実です。イーゼンハイムの祭壇画に描かれた惨たらしく悲惨なキリスト像は、まさに私たち全ての者に救いと永遠の生命を与えんがためにこそ、主が担って下さった御苦難の数々でした。旧約聖書・イザヤ書533節から5節の御言葉を心に留めましょう。「(3)彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。(4)まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。(5)しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」。

 

 私たち人間は罪に対して完全に無力な存在です。罪に対して完全に無力であるということは、死に対しても完全に無力であるということに繋がります。先日、50年前に三菱重工などの爆破事件にかかわった一人の新左翼の活動家が、末期癌に侵された身体で鎌倉の病院に入院して、最後は生まれたときの自分の本名で死にたいということで自首したという出来事がありました。あれなども、一人の人間が死に向き合っていかに無力な存在であるかというひとつの証であると思うのです。それならば、まさにそのような罪と死に対して完全に無力であるしかない私たち人間を救うために、神の御子イエス・キリストが、私たち人間の罪のもたらす暴力の渦の中に身を置いて下さり、完全に無力なおかたとなって下さった、そこに私たちの完全な救いがあるのです。

 

 それこそイザヤが「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」と語っているとおりです。神の御子が、神と本質を同じくしたもうおかたが、神そのものであるかたが、私たち人間の罪がもたらしめる暴力の極致である十字架を自ら担い取って下さり、完全に無力なおかたとして死んで下さった。まさにその十字架の死によって、主イエス・キリストは、私たちを支配していた罪と死に対して完全に勝利して下さり、信ずる者すべてに救いと生命を与えて下さった。私たちはいま、その十字架の主イエス・キリストによる救いの恵みの内を生きる僕たちとされているのです。祈りましょう。