説    教          列王記上83334節 ルカ福音書225462

                 「ペテロ主を否認す」 ルカ福音書講解〔200

                   2023・01・21(説教24032050)

 

 「(54)それから人々はイエスを捕え、ひっぱって大祭司の邸宅へつれて行った。ペテロは遠くからついて行った。(55)人々は中庭のまん中に火をたいて、一緒にすわっていたので、ペテロもその中にすわった。(56)すると、ある女中が、彼が火のそばにすわっているのを見、彼を見つめて、「この人もイエスと一緒にいました」と言った。(57)ペテロはそれを打ち消して、「わたしはその人を知らない」と言った。(58)しばらくして、ほかの人がペテロを見て言った、「あなたもあの仲間のひとりだ」。するとペテロは言った、「いや、それはちがう」。(59)約一時間たってから、またほかの者が言い張った、「たしかにこの人もイエスと一緒だった。この人もガリラヤ人なのだから」。(60)ペテロは言った、「あなたの言っていることは、わたしにわからない」。すると、彼がまだ言い終らぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた。(61)主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。(62)そして外へ出て、激しく泣いた」。

 

 主イエスはゲッセマネの園で大祭司カヤパが遣わした捕吏たちによって逮捕され、夜が明けぬ真夜中にカヤパの邸宅に連れて行かれました。弟子たちはみな恐ろしさのあまり散り散りになって逃げ去ってしまっていましたが、ただ一人ペテロだけはこっそりとカヤパの邸宅の中庭に忍びこみ、そこで下役どもらと一緒になって、そ知らぬふりをして焚火にあたっていたのでした。おそらくそこでは、下世話な雑談が交わされていたにちがいありません。ペテロも彼らの仲間の一人であるかのようにふるまいながら、雑談の輪に加わっていたわけであります。それが今朝の御言葉の54節と56節に記された状況でありました。

 

 そうしたおりしも、ペテロにとってまさに「冷や汗三斗」の出来事が突然に起こりました。それは今朝の56節にありますように「すると、ある女中が、彼が火のそばにすわっているのを見、彼を見つめて、「この人もイエスと一緒にいました」と言った」からでした。ここでは「この人もイエスと一緒にいました」と丁寧語に訳されていますが、おそらくはこの女性は「あたしはこの男の顔を覚えてるよ。この男はたしかに、あのナザレのイエスの弟子の一人だったよ」というように、いきなりペテロを指さしながら語ったに違いありません。焚火にあたっていた全ての人が、いっせいにペテロに注目しました。

 

 当然のことながら、動転したペテロは努めて平静を装いながら答えたのでした。今朝の御言葉の57節です。「ペテロはそれを打ち消して、「わたしはその人を知らない」と言った」。この「打ち消して」というのは、かなり強く否定したことを示す言葉です。おそらくペテロは「とんでもない、私はあの、イエスなんていう人は知らないよ。なんの関係もないよ」と語ったのでありましょう。できればその場から逃げ出したかったのですが、そうしますとますます疑われますから、平静を装ってペテロはそう答えたのでした。しかし、それで事は終わりませんでした。58節を見て下さい。「しばらくして、ほかの人がペテロを見て言った、「あなたもあの仲間のひとりだ」。するとペテロは言った、「いや、それはちがう」。これで2度、ペテロは主イエスを否認したわけです。

 

 それで追及は終わったかのように見えました。ペテロは内心ホッとしていたに違いありません。しかし約1時間経ってから3度目の追及の矢が放たれたのです。今朝の59節以下をご覧ください。「(59)約一時間たってから、またほかの者が言い張った、「たしかにこの人もイエスと一緒だった。この人もガリラヤ人なのだから」。(60)ペテロは言った、「あなたの言っていることは、わたしにわからない」。すると、彼がまだ言い終らぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた。(61)主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。(62)そして外へ出て、激しく泣いた」。

 

 これはどういうことかと言いますと、ペテロの話し言葉にはガリラヤ地方独特の訛りがあったのです。ガリラヤ方言があったわけです。それを追及されたのでした。「いいや、たしかにこの男はナザレのイエスの弟子の一人だ。彼が話すガリラヤ訛りの言葉でわかるじゃあないか」と、そう言い放たれたわけです。ペテロはもうたまらなくなって、神に誓いながら答えました「あなたの言っていることは、わたしにわからない」ペテロはついに、主イエスの弟子であることを一度ならず三度も否定してしまった。その瞬間、夜明けを告げる鶏の声がしました。60節には「すると、彼がまだ言い終らぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた」と記されています。ペテロはハッとして主イエスのおられるほうを見ました。61節には「主は振りむいてペテロを見つめられた」と書かれています。その主イエスのお顔は、悲しみと慈しみに満ち溢れたお顔でした。「そのときペテロは、「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。(62)そして外へ出て、激しく泣いた」のでした。

 

 このすべての出来事は、暗い夜の闇の中で起こったことでした。私たち人間の罪がこの世界にもたらす深い暗黒のただ中で「ペテロ主を否認す」という出来事が起こったのです。ここで大切なことは、今朝の61節にありますように、ペテロはこのとき「主イエスのお言葉を思い起こして…外へ出て、激しく泣いた」と記されていることです。つまり、ここでペテロは、主イエスの御言葉を思い起こして悔改めの涙を流したのです。この時のペテロの姿をヨハン・セバスティアン・バッハはマタイ受難曲の中で「主よ赦したまえ、主よ憐れみたまえ」という繰返される祈りの言葉として描いています。それは自分の弱さと罪に対する絶望の涙でした。ここでペテロの心は砕けたのです。しかしそれは、主イエスの御言葉を思い起こしつつ流された涙であり、主イエスの恵みと憐みに向けて砕かれた心であり、献げられた祈りでした。

 

 この時のペテロの姿とは対極にある、もう一人の弟子の姿を、私たちは知っているのではないでしょうか。それはイスカリオテのユダの姿です。イスカリオテのユダも、ペテロと同じように主イエスを否認し、主イエスを裏切ったのです。その罪の重さは同じです。むしろ、ユダは一度だけ主イエスを否認したのに対して、ペテロは三度も否認したのですから、数の上で申すなら、ペテロの罪のほうがユダの三倍重かったと言わねばなりません。そこで、イスカリオテのユダも、ペテロも、罪をおかし、絶望し、心が砕かれたという点では同じです。しかし、二人には決定的な違いがありました。それは、ユダの心は絶望の闇に向けて砕かれたのに対して、ペテロの心は、主イエス・キリストの恵みと憐みに向けて砕かれたことです。ユダの心は闇の支配に対して砕かれ、ペテロの心は「全ての人を照らす真の光」なるキリストの恵みの御手に向けて砕かれたのです。ユダの心は御言葉から離れた死の闇に向かって砕かれ、ペテロの心はまさに主の御言葉を思い起こしつつ、生命の光に向かって砕かれたのです。ユダの心は人間に向かって砕かれ、ペテロの心は神に向かって砕かれたのです。ユダの心は罪の闇に向かって砕かれ、ペテロの心はキリストの恵みに向かって砕かれたのです。そして主は、御自身に向かって砕かれた心を、魂を、ことごとく慈しみの御手に受け止めて下さるのです。そのひとかけらさえも、御手からこぼしたまわず、全てを受け止めて、新しい生命を与えて下さるのです。

 

 オスカー・クルマン(Oscar Cullmann)というスイスの神学者が「私たちの教会はまさに、この闇の中の悔改めの祈りから始まったのだ」と語っています。キリストの教会は、勝利の雄叫びを挙げる群れとして始まったのではないのです。その逆です。私たちの教会はまさに、今朝の御言葉のこのペテロの姿を起点として歴史を歩み始めたのです。「ペテロ主を否認す」という計り知れぬ罪の闇の中でこそ、私たちの教会は歴史の歩みを始めたのです。それは、まさに「ペテロ主を否認す」という計り知れぬ私たち人間の罪の闇の中で「全ての人を照らす真の光」なる御降誕と十字架の主イエス・キリストをのみ指し示し証しする群れとして立ち続けるためです。だから、私たちは自分自身を指し示しません。ただ御降誕と十字架の主イエス・キリストのみを指し示す群れとして歩み続けます。私たちの祈りはまさにバッハが描いたように「主よ赦したまえ、主よ憐れみたまえ」でしかありえません。私たちもまたペテロのように、主イエス・キリストに向かって心を砕く群れでしかありえないのです。そして主は、御自身に向かって砕かれた心を、魂を、そのひとつの欠片さえも疎かになさいません。まさに主は全ての者を救い、全ての者に復活の生命を与えて下さるのです。

 

私たちのために十字架を担って下さった主が、私たちの全存在を受け止め、その全ての罪を贖い、永遠の生命を与え、救いを与えて下さるのです。祈りましょう。