説    教             創世記112節 ルカ福音書224753

                「闇が支配する時にこそ」 ルカ福音書講解〔199

                   2023・01・14(説教24022049)

 

 「(47)イエスがまだそう言っておられるうちに、そこに群衆が現れ、十二弟子のひとりでユダという者が先頭に立って、イエスに接吻しようとして近づいてきた。(48)そこでイエスは言われた、「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか」。(49)イエスのそばにいた人たちは、事のなりゆきを見て、「主よ、つるぎで切りつけてやりましょうか」と言って、(50)そのうちのひとりが、祭司長の僕に切りつけ、その右の耳を切り落した。(51)イエスはこれに対して言われた、「それだけでやめなさい」。そして、その僕の耳に手を触れて、おいやしになった。(52)それから、自分にむかって来る祭司長、宮守がしら、長老たちに対して言われた、「あなたがたは、強盗にむかうように剣や棒を持って出てきたのか。(53)毎日あなたがたと一緒に宮にいた時には、わたしに手をかけなかった。だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である」。

 

 主イエスと弟子たちを取り囲む事態は、あたかも坂道を転げ落ちるかのように急展開の様相を見せていました。マルコの家の二階座敷での最後の晩餐が終わるや否や、イスカリオテの裏切りによって弟子たちの間に言い知れぬ不安が広がっていきました。ゲッセマネの園における主イエスの祈りの最中にも「誘惑に陥らないように目覚めて祈り続けていなさい」と言われたにもかかわらず、眠りこけてしまっていた弟子たちの姿がありました。そして今朝のこの47節以下においては「イエスがまだそう言っておられるうちに、そこに群衆が現れ、十二弟子のひとりでユダという者が先頭に立って、イエスに接吻しようとして近づいてきた」と記されているのです。殺伐とした物々しい雰囲気の中で、イスカリオテのユダが主イエスに近づいてきたのです。それは予てよりユダは捕吏たちに「私が近づいて接吻をした人がナザレのイエスだ。だから彼を捕らえよ」と語っていたからでした。

 

 このユダの行為に対して、今朝の48節を見ますと主イエスは「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか」とお語りになりました。この場合の「人の子」とはキリストのことをさしています。私たち人間は最も深い親愛の姿をもってさえ、神の永遠の御子キリストを裏切り、十字架へと追いやる罪をおかすのではないでしょうか。イスカリオテのユダがおかした罪は、ユダだけに特殊なものではなく、私たち全ての者に共通した罪の姿なのです。とまれ、この様子を見ていた他の十一人の弟子たちは、事の成り行きを黙って見ていることはできませんでした。彼らは一様にいきりたち、隠し持っていた剣を取り出して主イエスに言いますには「主よ、つるぎで切りつけてやりましょうか」と申したのです。

 

そうこうしておりますうちに一人の弟子が、それはシモン・ペテロでありましたけれども、怒りに身を任せて、たちまち剣を抜きはなつや否や、今朝の50節にありますように「祭司長の僕に切りつけ、その右の耳を切り落した」のでした。他の福音書によりますと、その大祭司の僕はマルコスという名の青年でした。剣道などでもよく経験することですが、面を打ち込まれそうになって咄嗟に頭を反らせた際に、右の耳を切り落とされてしまったものと思われます。とにかく、たちまちマルコスの顔面は血で真っ赤に染まりました。よく「一触即発」と申しますけれども、その防衛の最終ラインが破られて、人間の凶暴性が剥き出しになった瞬間でした。

 

 まさにその瞬間において、主イエスは驚くべき行動にお出になったのです。否、それは主イエスだからこその行動と申すべきでした。それは、今朝の51節にありますように、シモン・ペテロに対して「それだけでやめなさい」とおっしゃり「そして、その僕の耳に手を触れて、おいやしになった」と記されていることです。今朝のこの51節に記されている「(マルコスの)耳に手を触れた」というのは、原文のギリシヤ語では、かなり長い時間、3分間、5分間、それ以上かもしれませんが、ずっと手を当てて治療をしておられた様子を示しています。主イエスは全能の神の独子であられますから(神と本質を同じくしたもうおかたであられますから)削ぎ落されたマルコスの耳をお癒しになることができたのです。

 

 私事ですが、私は聖書を初めて読んだ16(高校1年生)の冬に、このルカ伝の2251節を読みまして、心の底から感動したのを覚えています。私はそのとき、主イエスというかたは、なんという慈愛に満ちた、そして勇敢なおかたであろうかと感動したのです。それからはいっそう熱心に聖書を読むようになったことを覚えています。特に、私は農学校の生徒でしたから、ときどき農作業の途中で怪我をすることがありました。そのような時、いつもこのルカ伝2251節を思い起こし、「もしイエス様がここにおられたら、私のこの怪我をすぐに癒して下さったにちがいない」などと思ったものです。

 

さて、ところで、剣を抜いたペテロはいったいどうしたのでしょうか?。これは想像ですけれども、ペテロも、他の十人の弟子たちもみんな、恐ろしくなって、その場から慌てて逃げ去ってしまったのではないでしょうか。時は夜中であり、あたりを深い夜の暗闇が支配していました。弟子たちはその暗闇の中に、散り散りになって逃げ去って行ったのではないでしょうか。それは、自分たちも主イエスと一緒に捕縛されてしまうのを避けるためでした。もっと言うなら、自分たちも主イエスと一緒に十字架にかけられてしまうことを恐れたからでした。

 

 今朝の御言葉の続く52節と53節をご覧ください。「(52)それから(主イエスは)自分にむかって来る祭司長、宮守がしら、長老たちに対して言われた、「あなたがたは、強盗にむかうように剣や棒を持って出てきたのか。(53)毎日あなたがたと一緒に宮にいた時には、わたしに手をかけなかった。だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である」。この53節において主イエスは「だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である」と語っておられます。それは、どういう意味なのでしょうか?。まず、ここで主イエスは捕吏たちに対して「毎日あなたがたと一緒に宮にいた時には、わたしに手をかけなかった」とおっしゃっておられます。つまり、エルサレムの神殿の中庭において、毎日主イエスがお語りになる説教を聴いていた人々、まさにその人々が主イエスを捕縛しに来ていたということがわかるのです。

 

 私たち人間の罪の恐ろしさは、主イエスの御口から神の国の説教を聴いてさえ、主イエスを「十字架にかけろ!」と罵り騒ぐ人々の群れに、自分も埋没させ同調させてしまうことにあるのではないでしょうか。群集心理の方向性というものは常にゴルゴタの方向を向いているものなのです。それは、夜の闇の中に散り散りになって逃げ去って行った弟子たちも同じでした。イスカリオテのユダがおかした罪は、弟子たち全てのものであり、同時にここに集うている私たち全ての者に共通したものなのではないでしょうか。それは同時に、御子イエス・キリストがお生まれになった日、あの最初のクリスマスの晩に、ベツレヘムの馬小屋を覆い包んでいた夜の闇と同じものでした。言い換えるなら、神の永遠の御子なるイエス・キリストは、まさに私たち人間の罪という深い夜の闇の支配するこの歴史的現実世界にお生まれ下さったかたなのです。

 

 まさに「もっとも相応しくないところ」に、主イエス・キリストは来て下さいました。ここは暗いから、人間の罪が渦巻いているから、恐ろしい世界だから、だからそんな世界は滅びるに任せよう…ではなかったのです。その真逆です。まさにこの歴史的現実世界が、さまざまな暗黒に満ち満ちているからこそ、私たち人間の罪が醸し出す混乱に満ち満ちているからこそ、だからこそ主イエス・キリストは、そこに来て下さったおかたなのです。私たち全ての者をその暗黒から救うためです。私たち全ての者を救い、永遠の御国の民となし、永遠の生命を与えて下さるためです。そのために主は「全ての人を照らす真の光」として、私たちのただ中に来て下さいました。まさに「闇が支配する時にこそ」主は私たち一人びとりと共にいて下さり、私たちのために、十字架への道を歩んで下さったおかたなのです。

 

 だからこそ私たちは、このかたを「イエス・キリスト」とお呼びします。イエスとは「救い主」という意味であり、キリストとは「神がお遣わしになった真の王・全人類の罪の贖い主」という意味です。まさにこの主イエス・キリストが、闇が支配する時にこそ、深い暗闇の中でこそ、私たち一人びとりと共にいて下さり、私たちをかき抱くがごとくに愛して下さり、御自身から片時も離れることのない「御国の民」となしていて下さるのです。

 

 終わりに、同じ新約聖書のヨハネ伝1633節を心に留めたいと思います。「(33)これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって(あなたがたがわたしに結ばれて)平安をえるためである。あなたがたは、この世では悩みがある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。この最後の「しかし勇気を出しなさい」とは、ルター訳のドイツ語の聖書では“Aber seid getrost”です。「されど慰められてありなさい」(慰められ続けてありなさい)という命令形です。私たち全ての者が、いま、この喜ばしい命令形の福音のもとに生きる僕たちとされています。そこに、私たちの揺るぎなき平和と幸いがあり、自由と喜びと勇気があるのです。祈りましょう。