説    教           イザヤ書5117節 ルカ福音書223946

                 「主イエスの祈り」 ルカ福音書講解〔198

                   2023・01・07(説教24012048)

 

 「(39)イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。(40)いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。(41)そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、(42)「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。(43)そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。(44)イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。(45)祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって(46)言われた、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。

 

 主イエスはその日も、いつものようにオリブ山に、祈るために行きたまいました。オリブ山というのはエルサレムの東側、キドロンの谷を隔てて聳える標高800メートルの山のことです。エルサレムそのものが標高750メートルほどのところに位置する街ですから、オリブ山はエルサレムから見ますと高さ50メートルほどの丘になるわけです。40節を見ますと、主イエスは「いつもの場所に着いてから、彼ら(弟子たち)に」言われますには「誘惑に陥らないように祈りなさい」と、こうおっしゃった。この「誘惑に陥らないように祈りなさい」とは、原文のギリシヤ語では「誘惑に陥らないように祈り続けていなさい」という意味の言葉です。私たち主の弟子とされた者たちはいつも、祈り続ける生活を主の御手から与えられているのではないでしょうか。

 

 それはなによりも「誘惑に陥らない」ようにするためです。キリストの弟子たちとされた私たちも、罪の誘惑から無縁な者たちではありえません。むしろ、明るい日差しの下でこそ影の濃さがよりいっそう目立つのと同じように、主の御あとに従いゆかんとする者たちにこそ、悪魔は容赦なく誘惑の手を伸ばそうとするからです。だからこそ、私たちはいつも「誘惑に陥らないように祈り続ける」必要があるのです。時はもう夜中でした。ですから弟子たちはとても疲れていました。眠かったのです。しかし、主イエスは少し離れたところに「退かれ」(リトリートなさって)祈りたまいました。パスカルはパンセという本の中でこう語っています。「憂いの内なる主イエス。主イエスは世の終わりに至るまで我らのために祈りたもう。その間、我らは眠ってはならない」。

 

どうぞ今朝の御言葉の41節以下をご覧ください。「(41)そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、(42)「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。(43)そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。(44)イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた」。まことにこれは、凄まじいばかりの主イエスの祈りのお姿ではないでしょうか。私はこう思います、いったい弟子たちの誰が、このとき、主イエスの祈りの言葉を聴いていたのでしょうか?。それはペテロであったかもしれませんし、ヨハネまたはヤコブであったかもしれない。いずれにしても、弟子たちは睡魔と闘いながら、主イエスの祈りのお姿とその御声に必死になって耳を傾けていたにちがいないのです。

 

 なによりも43節以下には「(43)そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。(44)イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた」とございます。「御使い」というのは天使のことです。この「天使が主イエスを力づけた」というのは、私たちには少々奇異な言葉に聞こえるのではないでしょうか。天使は神ではなく被造物です。言い換えるなら、私たち人間の仲間です。人間の仲間にすぎない被造物が、たとえそれが天使であったとしても、神の御子でありたもう主イエスを「力づける」ことなどできるのでしょうか?。その答えは、主イエスはここで完全に、最も弱き者の立場にまでお降りになっておられるということです。その「最も弱き者の立場」とは何かと申しますと、それは罪と死の支配のもとにある私たち全ての者のことです。

 

 今朝あわせてお読みした旧約聖書・イザヤ書5117節に、このようにございました。「(17)エルサレムよ、起きよ、起きよ、立て。あなたはさきに主の手から憤りの杯をうけて飲み、よろめかす大杯を、滓までも飲みほした」。これは歴史的には紀元前586年に起こったバビロン捕囚の出来事をさしていますが、聖書的・信仰的な意味においては、私たちのこの歴史的現実世界が闇のような暗い力の支配のもとにあるかのように見えるという事実をあらわしています。元旦に能登半島で大きな地震がありましたが、あれは、どんなに恐ろしく見えましょうとも「肉体を殺しても魂を殺すことはできない」自然の猛威に過ぎません。能登半島大地震で犠牲になった人たちは、肉体は殺されましたけれども、魂まで殺されたのではないのです。彼らの身に起こったことは確かに大きな悲劇ですが、それは最悪のことではないのです。むしろ最悪のことは、罪の支配を知らず、安閑として生き続ける私たちの側にこそあるのではないでしょうか。それならば、より壊滅的で、本質的で、解決されねばならないことは、人間の肉体も魂も滅びに至らしめる罪の支配なのです。

 

 まさに、私たちと、私たちのこの歴史的現実世界を、その宿命とも言うべき壊滅的なカタストロフィー(罪とその支配による魂の永遠の滅び)から救い、救いと新たな生命を与えるために、神の永遠の御子イエス・キリストが、神と本質を同じくしたもうおかたが、十字架におかかりになり、私たちの身代わりになって死にたまい、私たちの罪の贖いをなしとげて下さったのです。それが十字架の主イエス・キリストの福音であります。十字架の主イエス・キリストによる救いの福音は、能登半島大地震の被災者たちを慰め救う福音であるのと同じように、否、それ以上の意味において「ああ、あの地震が私の住むところでなくて良かった」と心ひそかに思い、今朝の弟子たちと同じように、祈りたもう主イエスのそばで安々と眠りこけている、私たち一人びとりに対して宣べ伝えられている救いの音信なのではないでしょうか。

 

 主イエスは血のような汗をつたたらせながら激しく祈りたもうたのです。まさに「祈祷の戦場」がそこに展開されていました。いままさに、我らの主イエス・キリストは、十字架を担いたもうのです。私たち全ての者の救いのために。歴史的現実世界全体の救いのために。眠っている弟子たち全ての救いのために。主は弟子たちが眠っているさなかにも十字架を背負いたもうのです。私たちが自分の罪も、自分の本当の姿も、世界の本質も、なにひとつ知らないでいるその時にも、主イエスは既に、ゴルゴタへの道を歩んでおられるのです。それが主イエスの、ゲッセマネの祈りの意味です。「(42)父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」これこそ、主イエスの祈りでした。「わが思いにあらで、ただ御心を為したまえ」と祈りたもうたのです。なんのためにか、私たち全ての者の救いのためです。私たちの身も魂も、罪による滅びに至らずして、永遠の救いと生命を得させるために、主は十字架を負うて、あのゴルゴタの丘に続く「悲しみの道」(ヴィア・ドロローサ)を歩んで下さったのです。

 

 だからこそ、私たちは、パスカルが語ったように「主イエスは世の終わりに至るまで祈りたもう。その間、我々は眠ってはならない」のです。しかし、現実にはどうだったでしょうか?。今朝の終わりの45節以下をご覧ください「(45)祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって(46)言われた、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。主イエスが激しい祈りの戦いを終えて、弟子たちのところに戻られますと、なんと弟子たちは「悲しみのはて寝入って」いたのでした。熟睡していたのでした。そこでこそ主イエスは46節に言われます。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」と。私たちは、まさにこの主イエスの御言葉のままに生きる2024年でありたいと思います。「パスカル的人間」とは「信仰において目覚めて祈り続ける人」のことです。そのような私たちでありたいと思うのです。

 

 なによりも、私たちが熟睡していた時にさえ、主イエスの祈りは続けられていたのです。主はいつも、私たちの救いのために祈り続けておられる。この全世界の救いのために、祈り続けておられる。まさにその祈りにおいて、あの呪いの十字架を、最も悲惨な死を、ルターの言う「死の中の死」を、主は担い取って下さいました。それはまさにルターの言う「死を滅ぼす唯一の死」です。十字架の主イエス・キリストにこそ、十字架の主イエス・キリストにのみ、全ての人の真の救いと自由と生命があるのです。いまそのことを心新たに思い起こしつつ、新しいこの主の年2024年の全ての歩みを「信仰において目覚めて祈り続ける人」として、キリストの僕として、歩み続けてまいりたいと思います。祈りましょう。