説    教           イザヤ書714節 マタイ福音書11825

                 「インマヌエル」 クリスマス

                   2023・12・24(説教23522046)

 

 「(18)イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。(19)夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。(20)彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。(21)彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。(22)すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、(23)「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。(24)ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。(25)しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた」。

 

 「クリスマスおめでとう」を英語では「メリー・クリスマス」と言います。最近は「シーズンス・グリーティングス」などという砕けた表現も用いられているようですが、それは論外といたしまして、この「メリー・クリスマス」の「メリー」とは、いったいどんな意味なのでしょうか?。これは本来「限りなく大きな喜び」を意味する「メリーネス」という言葉から来ているのです。ですから「メリー・クリスマス」とは「クリスマスこそ、私たちにとって、限りなく大きな喜びです」という意味なのです。そこで今朝は、このクリスマス礼拝にあたり、この「メリーネス=限りなく大きな喜び」について、ご一緒に聖書の御言葉を通して、御降誕の主イエス・キリストの福音を聴いて参りたいと思います。

 

 先ほどお読みいたしましたマタイ福音書118節以下には、最初のクリスマスの出来事が事細かく記されているわけでありますが、その中でひときわ、私たちの目を惹くものは23節の御言葉ではないでしょうか。すなわち、天使ガブリエルがヨセフに告げた「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」という御言葉です。そしてすぐに「これは、「神われらと共にいます」という意味である」と、マタイによる但し書きが付けられています。インマヌエル( עִמָּנוּאֵל)というのはヘブライ語で「神われらと共にいます」という意味ですよ、という但し書きです。それは今朝併せてお読みした旧約聖書・イザヤ書714節「それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」からの引用です。

 

 さて、そこで、この「インマヌエル」という言葉ですが、ヨーロッパなどに参りますと、人の名前としてもよく用いられています。哲学者カントの名前は「エマヌエル・カント」でした。女性ならばそれは「エマヌエラ」というように女性形になります。そしてこの「エマヌエル」を短縮形にした名前が「エマ」です。私たちの教会員である王翔さんの娘さんはエマさんですが、このエマさんの名前も実は「インマヌエル」から来ているのです。そこには、人類が歴史始まって以来、ずっと心に抱き続けていた大きな願いが投影されています。それは、なんとかして本当の神様にお会いしたいという願いです。言い換えるならばそれは、自分という存在の根源的な理由と意味を知りたいという願いに繋がります。

 

 皆さんは「神(さま)」と聞くとき、それはどのようなかただと想像するでしょうか?。かつて折口信夫という民俗文化学者がいました。日本最古の神社である奈良県明日香村の飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)の神主の息子として生まれたかたです。非常に博学なかたでして、日本の八百万の神々、文化や伝承や神話について、知らないことは何ひとつないというほどの大変な学者でした。釈超空という名で歌人としても知られています。この折口信夫が、大切な一人息子を(養子として迎えたお弟子さんを)戦争で失うのですが、そのとき、こういう歌を詠みました。「世の中に人を愛する神ありてもしもの言はば我のごとけむ」。これはどういう意味の歌かと申しますと、もしもこの世の中に、人間を本当に愛したもう真の神がおられて、その神が言葉を語られるならば、今の私のように言葉を語られるにちがいない」という意味です。決して僭越な歌ではありません。それぐらい、独り子を喪った折口信夫の悲しみは深かったのです。その悲しみに、嘆きに、呻きに、叫びに、寄り添って、同じように呻き叫んで下さる神様、ただそれだけが本当の神様だ。しかし、そういう神様は日本にはいないではないかと、折口信夫は語っているのです。

 

 まことの神は、本当の神様は、私たちを限りなく愛して、その救いのために、全世界とその歴史の救いのために、その愛する独子を、イエス・キリストを、世にお与えになられた神なのです。折口信夫が探し求めていた本当の神はそういうおかたなのです。そういう真の神を、実は、全人類が、探し求めているのです。「世の中に人を愛する神ありてもしもの言はば我のごとけむ」と、実は全ての人が詠い続けているのです。そのような私たちがいま、マタイ福音書を、イザヤ書を、通して聴いている御言葉こそ「インマヌエル=神われらと共にいます」にほかなりません。これは、真の神の独子であられるイエス・キリストのもう一つのお名前です。「人を愛するまことの神」を見事に言いあらわしている名前なのです。本当の神は、こんな混乱した罪深い世界など知らんと言ってそっぽを向かれるかたではない。そうではなく、まさに罪人なる私たちのもとに、黙って降りて来て下さったおかたなのです。

 

 世界で最も暗く、低く、寒いところに、すなわち、あのベツレヘムの馬小屋に、このかたは、神の御子・主イエス・キリストは、お生まれ下さいました。なんのためにか?私たちと全世界を救うためです。本当の神が、どんなに深く真実に人間を愛したもうおかたであるかを、私たちはこのかたのお名前「インマヌエル」によって、はっきりと知らされているのです。なぜなら「インマヌエル」とは「神われらと共にいます」という意味だからです。さらに言うなら、それは「わたしは決して、あなたを見捨てない」という意味の名前だからです。「わたしは決して、あなたを見捨てない。あなたから離れない」という意味なのです。それどころではありません、このインマヌエルなる主イエス・キリストは、私たちの罪を担って、あのゴルゴタの十字架への道を、まっしぐらに歩んで下さいました。どうか想像してみて下さい、永遠なる神の御子が、神と本質を同じくしたもうおかたが、天地万物の創造主である神そのものであられるおかたが、寒村ベツレヘムの馬小屋の、飼い葉おけの中にお生まれになり、私たち全ての者の救いと自由と平和のために、ゴルゴタの丘へと続く道を(ヴィア・ドロローサを)十字架を背負って歩んで下さったのです。

 

 そして、ゴルゴタにおいて、私たちの罪の贖いと全世界の(歴史全体の)救いのために、御自身の生命を献げ尽くして下さいました。ズタボロになって死んで下さったのです。そして、死にあたりましても、主はご自分を十字架にかけた全ての人を祝福したまい、彼らの救いを祈って「父よ、わが魂を御手に委ねまつる」と言われて死んで下さったのです。今日のこのクリスマスは、まさにこの十字架の主イエス・キリストの御降誕をお祝いする日です。私たちと共にいて下さるインマヌエルなるまことの神に感謝と讃美を献げる日です。だから、スイスの神学者カール・バルトが語っているように「光り輝くクリスマスの祭壇の向こうに、私たちはゴルゴタの十字架が屹立しているのを見る」のです。

 

 まさにこの、十字架の主イエス・キリスト(インマヌエルなる神の御子)が御降誕された日でありますゆえに、クリスマスの出来事は、全てにまさる限りなく大きな喜び「メリーネス」なのです。だからこそ私たちは、全ての人々と共に、全ての人々の向けて、心からなるクリスマスの挨拶を交わします。「メリー・クリスマス。クリスマスおめでとう。まことに主は、あなたのためにお生まれになられました」。祈りましょう。