説    教           イザヤ書3015節  ルカ福音書222834

                 「神に立ち帰る」 ルカ福音書講解〔196

                   2023・12・17(説教23512045)

 

 「(28)あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。(29)それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、(30)わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。(31)シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。(32)しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりない」。(33)シモンが言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。(34)するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。

 

 今朝の御言葉の冒頭の28節において、私たちは驚くべき主イエスの御言葉を聴くのです。それは主が十二弟子たちに対して「あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである」と言われたことです。私たちはこれを一読して思うに違いない。「いったい十二弟子たちの誰が、こう言われるに値するのだろうか」と。事実として弟子たちはこのとき、自分たちの中で誰がいちばん偉いだろうかと論争をしたり、イスカリオテのユダの裏切りが明らかになったり、いかにも掛け値なしに申すなら「ろくでもない弟子たち」の姿を露呈していたのでした。会社に譬えて申しますなら、期待を背負って入社した社員たちが、揃いも揃ってみんな「ダメ社員」だったようなものです。しかし、主イエスは今朝のこの場面においてこそはっきりと言われるのです。「あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである」。

 

 主イエスはここで、不必要なお世辞を語っておられるのではありません。ダメ社員でしかない弟子たちに「だけど私はお前たちに期待しているぞ」と願望を投げかけて忖度しておられるのでもありません。むしろここで主イエスが語っておられることは、十二弟子たち(まさに私たち一人びとり)に対する祝福のはなむけです。その証拠に、今朝の御言葉の続く29節と30節において、主イエスは明確にこうおっしゃっておられるのです。「(29)それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、(30)わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう」。

 

 いま「はなむけ」という言葉を用いましたけれども、これは本来、旅人を馬に乗せて峠の頂上まで見送った人々が、馬の鼻面を旅行く方角に向けまして(文字どおり、鼻向けをして)旅の無事と平安を祈ったという故事に由来しています。つまり、主イエスはここで弟子たちの心と姿勢を、神の永遠の御国に向けて「はなむけ」をして下さっているのです。「私は、あなたがたを、父なる神の永遠のご支配と導きに委ねる。父なる神はあなたがたを導いて下さって、わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう」とはっきりと語っていて下さるのです。この「さばかせる」とは「神の国の永遠の祝福を世に告げる器となす」という意味の言葉です。言い換えるならば、主はいま弟子たち一人びとりを、神の御国の全権大使として世に派遣なさろうとしておられるのです。

 

 全権大使というのは、国家の権威と栄光を一身に背負った者のことです。それと同じように、否、それ以上に、神の御国の全権大使とされた弟子たちは、神の御国の権威と栄光を現す者たちとして、この世に遣わされようとしているのではないでしょうか。イギリスの王室といえば、日本の皇室のように、特別な伝統と権威を持つ存在ですが、そのイギリス王室が主催する王室晩餐会において、出席者たちにただひとつの例外があります。それはなにかと申しますと、牧師だけはふだん着ている、質素な牧師の服装で出席してよいのです。それは、それが神の国の全権大使としての服装だからです。それ以上の権威あるものはないと公認されているからです。それは、神の国の権威と栄光ですから、全ての人をキリストへと導くものです。そして全ての人に救いと平和を与えるものです。そのような神の国の全権大使に、弟子たちは任命されたのです。

 

 それならば、このことは、ただ神の御業であって、少しも、弟子たちの相応しさや、学識や、経験などによるものではありませんでした。むしろ、そのような「相応しさ」など、なにひとつなかった弟子たちでした。あったのは、罪人のかしらとしての姿だけでした。弱さと脆さがあり、あらゆる不完全さと欠点がありました。それにもかかわらず、否、それだからこそ、主イエス・キリストは、彼ら弟子たちを、神の永遠の御国の全権大使に任命して下さったのです。

 

第二コリント書129節と10節を心に留めましょう。「(9)ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。(10)だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」。まさにこの恵みと祝福の確かさによってこそ、主は弟子たちにハッキリとおっしゃったのです。「(28)あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである」と。弟子たちがそのような、主の僕としての生涯を全うすることを、主イエスはわかっておられたからです。

 

だからこそ、今朝のこの御言葉は、すぐに、ペテロの姿をクローズアップいたします。どうぞ、今朝の31節以下をご覧ください。「(31)シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。(32)しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりない」。(33)シモンが言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。(34)するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。イスカリオテのユダは一度だけ、主イエスを裏切りましたけれども、シモン・ペテロは(自分こそ一番弟子であると自称しうぬぼれていたペテロは)一度ならず三度までも、主イエスを裏切ったことが福音書に記されています。ペテロが犯した罪はユダの罪より3倍重かったと言えるのです。まさにそのペテロに対していま、主イエスは明確におっしゃいます。「(31)シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。(32)しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」と。

 

 サタンは、悪魔は、あなたを苦しめ、脅し、あたかも麦をふるいにかけるように、大きく揺さぶって落とそう(滅ぼそう)とするだろう、そこでこそ「しかし」と、主イエスははっきりと告げて下さる。「(32)しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりない」。そうだ、ペテロよ、あなたは必ず立ち直れるのだ。私があなたを、サタンの手から救うからだ。私があなたのために、あなたの罪と滅びを背負って、十字架への道を歩むからだ。私がいつも、あなたと共にいるからだ。私が常に、あなたの全存在を支えているからだ。だから、あなたは、たとえ倒れても、再び立ち上がって、歩むことができるではないか。私が、あなたを立ち上がらせるからだ。あなたが何度倒れても、そのたびに、私はあなたを必ず立ち上がらせ、立ち直らせて、私の愛と祝福のうちを歩む、私の真の弟子とするからだ。

 

 だからこそ、主はいま、ペテロに、否、ここに集うている私たち全ての者に、主は力強く語っていて下さいます。御自身の十字架をさして。「(32)しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりない」と。私たちは、私たちこそ、いつでも、どこでも、何度でも「神に立ち帰る」ことができる、キリストの真の弟子たちとされているのです。少しも、私たち自身の力ではありません。ただ主の十字架による贖い恵みによってです。私たち全ての者の救いのために、そして、この全世界の歴史と、全ての人の救いのために、主はあのゴルゴタの丘において、呪いの十字架を担って下さった。十字架において御自身の生命の全てを献げ切って下さったのです。そして、私たち全ての者の救いを成し遂げて下さったのです。

 

 今朝の御言葉の31節以下を、もう一度お読みしましょう。「(31)シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。(32)しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりない」。祈りましょう。