説    教            イザヤ書96節  ルカ福音書222427

                 「キリストの謙卑」 ルカ福音書講解〔195

                   2023・12・10(説教23502044)

 

 「(24)それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼ら(弟子たち)の間に、起った。(25)そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。(26)しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。(27)食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている」。

 

 たった今、主イエスの御手から、聖餐のパンとぶどう酒を戴いたばかりでありましたのに、もう弟子たちの間には、神の国の秩序からは最も遠いいがみ合いが始まっているのです。それは24節に示されていましたように「自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうか」という言い争いでした。この「偉い」と訳された元々のギリシヤ語は「上に立つ」という意味の言葉です。つまり弟子たちは「自分たちの中で、いったい誰がみんなの上に立つ者なのか」つまり、誰が指導的な立場に立つ者なのか(一番弟子なのか)ということで論争を始めたのでした。

 

 その様子を黙って見ておられた主イエスは、やがて静かな、しかし毅然とした御声で、そのようにいがみ合う弟子たちを窘めたもうたのです。25節以下をご覧ください。「(25) そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。(26)しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。(27)食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている」。

 

 この世の習いにおいては、いわゆる「王」と呼ばれる人々はみな、その民の上に君臨しているであろう。つまり、民の上に君臨する人が「王」と呼ばれるのであろう。そして、民衆に対して意のままに権力を振るっている人たちは「恩人」と呼ばれることもあるだろう(この場合の恩人とは、功労者と言うような意味です)。そのことを明らかにした上で「しかし、あなたがたは」と主イエスは言われたのです。「しかし、あなたがたは、そうであってはならない」と。この「あなたがた」というのは、その時点においては12人です。全世界の中のたったの12人です。つまりそれは、キリストの弟子として召され、立てられた人々のことです。そのキリストの弟子の数がたったの12人であっても、それは計り知れない変化をこの世界にもたらすのだと、主イエスは明確に私たちにお教えになりました。

 

 私が牧師としての歩みを出発したのは東京の青山教会に於いてでした。当時の青山教会はまだ連合長老会にも加盟していませんでした。前任の牧師先生は宮内彰先生でした。この宮内先生が月に1回説教をなさったとき(私は月に3回ないし4回の説教でした)よくお触れになったリビングストンの逸話がありました。デビッド・リビングストンという人は、19世紀に宣教師としてアフリカ伝道に遣わされ、現地の人々から「アフリカの父」と呼ばれるほど目覚ましい働きをした人です。このリビングストンはスコットランドの、とても貧しい家庭の出身でした。彼が12歳のとき、礼拝の中で献金のお盆が回ってきたが、彼には献金するべきお金が1シリングも無かった。そこでリビングストン少年はどうしたかと申しますと、献金当番のかたに頼んで「どうかその献金盆を、床の上に置いて下さい」と申したのです。

 

そして、リビングストン少年は、その献金盆の上に、靴を脱いで自分が乗りますと、大きな声で祈りました。「主なる神よ、私には献金するためのお金がありません。しかし、私は、私みずからと、私の全生涯を、いま、あなたの御用のためにお献げいたします。どうか私を、あなたの真の弟子とならせたまえ」。やがてリビングストン少年は、この祈りのとおり、17歳のときに優秀な成績でエディンバラ大学の神学部に特待生として入学し、6年間の学びの後、24歳で牧師となり、宣教師として中央アフリカに遣わされ、そこで立派な伝道者のわざをなし、粗末なテントの中で、風土病のために40代の若さで亡くなるのですが、そのときも祈りの姿勢のまま死んでいたと伝えられているのです。宮内彰先生はよくこのエピソードを説教の中で引用なさって「たった一人が本物のキリストの弟子になるとき、そこに神の大きな御業が現わされるのです」とおっしゃいました。忘れることのできない言葉です。

 

 ですから、主イエスが「しかし、あなたがたは」と十二弟子たちにおっしゃったとき、主イエスの御心の中には、まさに「神のなさる大きな御業」が見えていたに違いありません。この12人は少なくなんかないよと、主イエスははっきりと弟子たちに、そしてここに集うている私たち一人びとりに、お教えになっておられる。「あなたたちは決して小さな群れなんかではない」とおっしゃっておられるのです。大切なことはただひとつ、私たち一人びとりが、本物のキリストの弟子になることです。

 

 今朝の御言葉の26節と27節において、主イエスはこのようにお語りになっておられます。「(26)しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。(27)食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている」。これは、私たち一人びとりが、本物の神の僕になることを、主イエスは丁寧にお教えになっておられるのです。「そうするべきだ」とか「そうあるべきだ」ということではありません。そうではなくて「いま既に、あなたは、そのような真の神の僕として生き始めているではないか」と、主ははっきりと私たち一人びとりに語っていて下さるのです。その道を、主の僕たる道を、最後まで歩み通しなさいと、私たち一人びとりに教えておられるのです。

 

 それは、なぜでしょうか?。習うという漢字には2種類ありますね。「習う」と「倣う」です。そのどちらも「師匠の真似をする」という意味です。「生来は相隔たるも、倣いてのちは相共に似たり」でありまして、倣うということは、いつしか師匠に似た者になることを意味するのです。牧師の世界にも同じことが言えます。自分にとって決定的な影響を持つ牧師の影響を受けて、いつの間にか説教の語り口調までその先生に似た者になるということがあるのです。私にとっては洗礼を授けて下さった森下徹造先生と、先ほどの宮内彰先生、このお二人の影響が決定的でした。どちらも飾らず淡々と講解説教をなさるタイプの牧師先生でした。全てにまさって、キリスト者はキリストに倣う者なのです。だからキリストに似てくるのではないでしょうか。弟子が師匠に似るのは当然の成り行きだからです。私たちはキリストに倣って生きる者たちなのです。教会は「御言葉と聖霊によって現臨したもう主イエス・キリストに倣う神の僕たち」の群れです。

 

 今朝の説教題を「キリストの謙卑」といたしました。「謙卑」という字は、ほとんどの人が知らないと思います。純然たる神学の言葉です。それはギリシヤ語の「ケノーシス」という言葉の翻訳です。もともとは空虚(虚無・真空)を意味する「ケノウセース」“κενούσης” という言葉が元になっています。同じ新約聖書で申しますなら、ピリピ書26節「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、かえって、おのれを虚しうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」とあります「おのれを虚しうして」が「ケノーシス」です。

 

 それは、クリスマスの晩に、全能の神の御子が、世界で最も貧しく、低く、暗い場所に、あのベツレヘムの馬小屋に、お生まれになられた出来事を示しています。そして同時に、主はその地上でのご生涯(公生涯)を全く「僕の形をとられて」過ごされ、私たち全ての者の罪の贖いと救いのために、十字架におかかりになって、御自分の生命さえも献げ切って下さって、この歴史的現実世界に救いを与えて下さったのです。この世界が、歴史が、そして私たちが、滅びずして救いの完成の希望と幸いと喜びへと導かれているのは、ただ十字架の主イエス・キリストの謙卑(ケノーシス)によるのです。そのことを今朝の御言葉ははっきりと私たちにあらわし、私たち一人びとりが、まさにそのキリストの謙卑によって救われ、生かされている僕たちであることを、明確にさし示しているわけであります。祈りましょう。