説    教       エレミヤ書313334節  ルカ福音書221423

                 「聖餐の制定」 ルカ福音書講解〔194

                   2023・12・03(説教23492043)

 

 今朝お読みしたルカ伝2214節以下に、このようにございました。「(14) 時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒たちも共に席についた。(15)イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。(16)あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。 

 

 この御言葉を読みますと、十二弟子たちと共に過越し、すなわち聖餐の食卓を共にすることは、主イエス御自身の、かねてからの切なる願いであったということがわかります。つまり、聖餐の食卓は、私たちの思いや願いや計画によって備えられたものではなく、主イエス・キリスト御自身の御心から出た切なる願いに基づくものであったのです。そして16節には、主イエスは不思議な御言葉をお語りになりました。それは「(16) あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」というものでした。

 

 それは、いったい、どういう意味なのでしょうか?。主イエスはこの聖餐の食卓を囲んだ後、すぐに、祭司長や律法学者たちによって捕らえられ、不当な裁判によって十字架刑の判決を下され、ゴルゴタの丘へと続く「悲しみの道」(ヴィア・ドロローサ)を、十字架を背負って歩みたもうのです。ですから、このときの聖餐の食卓は文字どおり、私たちが主イエスと共に地上においてあずかることのできる「最後の晩餐」でありました。ということは、この聖餐の食卓は、あのゴルゴタの十字架に直結しているのです。つまり、私たちが聖餐の食卓にあずかることは、十字架の主イエス・キリストの贖いの恵みに連なる者になることを意味するのです。

 

 しかしもちろん、このときの弟子たちには、そのことが少しもわかっていませんでした。否、正確に言うなら、少しわかっていた人がいました。それはイスカリオテのユダでした。しかしユダはこの時すでに、主イエスを銀貨30枚と引き換えに、祭司長や律法学者たちに引き渡す約束をしていました。ということは、ようするに、ユダをも含めて12人の弟子たち全員が、主イエスの十字架の意味が全くわかっていなかったということです。私たち人間は生まれたままの知恵と力によっては、微塵も神の言葉を理解することはできないのです。人間の自然性は罪の力に対して完全に無力だからです。ただ恵みと聖霊の導きによってのみ、私たちは御言葉を正しく読みかつ知る者とされるのです。

 

 そこで私たちは、続く17節以下の御言葉を読んで参りましょう。「(17) そして(主イエスは)杯を取り、感謝して言われた、「これを取って、互に分けて飲め。(18)あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。(19)またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。(20)食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である」。

 

 これらの御言葉は「聖餐制定語」と申しまして、私たちの教会に於いても聖餐式のたびごとにそのまま朗読されるものです。これは、聖餐の食卓の主(テーブルマスター)は十字架と復活の主イエス・キリスト御自身であられることを明確に示すためです。この「聖餐制定語」において、主イエスはまず「杯を取り、感謝して」「これを取って、互に分けて飲め。あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」と語りたまいました。そして続く19節以下においては「またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」と言われました。そのように、杯とパンを祝福なさったあとで、まずパン、次に杯の順に、弟子たちにそれをお配りになられた(お与えになった)のであります。

 

 ここで大切なことは、主イエスはここで明確に、パンについては「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである」そしてぶどう酒については「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である」とおっしゃっておられることです。つまり、弟子たちが(私たちが)聖餐のパンとぶどう酒にあずかることは、私たちが、御言葉と聖霊によって現臨したもう主イエス・キリストの御手から、永遠の生命のための「無くてならぬ唯一の御糧」を戴くことなのです。それは、私たちがやがて天の御国(神の御国=天国)においてあずかる永遠の生命の御糧を、歴史の中で先取りさせて戴くことです。終末論的な祝福の御糧を、いま人生のただ中において主の御手から親しく頂くことです。だからこそ、聖餐は洗礼と共に教会を主の教会たらしめる2つの聖礼典(サクラメント)として、初代教会の時代から大切に受け継がれてきました。

 

 そもそも、教会をあらわすギリシヤ語のひとつである「コイノニア」という言葉そのものが、聖餐の食卓に私たちがあずかることを意味する「ともに一つの御糧にあずかる」という意味なのです。それは(コイノニアという言葉は)さらに申しますなら「主イエス・キリストという唯一の御糧に、ともにあずかる者になること」を意味します。ですから、教会の本質である「聖徒の交わり」もまた「主イエス・キリストという唯一の御糧に、ともにあずかる者になること」を意味するのです。決して、私たちが人間同士として、楽しく愉快にレクリエーションをして過ごすとか、バザーを行って地域社会の人たちに喜ばれるとか、そういう意味ではないのです。私はそういう交わりの側面も一概に否定はしませんけれども、少なくともそれが「聖徒の交わり」なのではないということは、いつも明確にしておかなくてはなりません。繰返して申しますが「聖徒の交わり」とは「主イエス・キリストという唯一の御糧に、ともにあずかる者になること」です。

 

 今朝、併せてお読みした旧約聖書・エレミヤ書3133節と34節に、このように記されていました。「(33) しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。(34)人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。

 

 ここには、どういうことが書かれているかと申しますと、キリスト教の本質は(救いの福音の本質は)私たちが頭の中で「わかった」とか「理解できた」とかいう次元の事柄なのではないということです。そうではなくて、それは文字どおり「キリストを食べる」ことなのです。キリストを食べるとは、十字架と復活の主イエス・キリストを救い主と信じて、主の御身体なる教会に連なって生きることです。そして、主の御身体なる教会に連なって生きるとは、礼拝者として、御言葉に養われつつ、聖霊の導きのもとに歩む者(キリスト者)になることです。そして、キリスト者になるとは「聖徒の交わり」に生きる神の僕になることです。まさにその「聖徒の交わり」こそ「主イエス・キリストという唯一の御糧に、ともにあずかる者になること」なのです。

 

 だから預言者エレミヤは、主イエス・キリストが全ての人に与えて下さる「聖徒の交わり」においてこそ、私たち全ての者の罪の贖いと赦しと新生が起こることを、喜びをもって宣べ伝えたのです。主イエス・キリストが私たちに与えて下さった「聖徒の交わり」は「聖餐の食卓にあずかること」であり、そこにこそ、私たちの罪の贖いと赦し、そして永遠の生命があるからです。だから、聖餐の食卓にはイスカリオテのユダさえも招かれていました。主イエスは既に、イスカリオテのユダの罪をも、私たちの罪と同様に、贖い、赦しておられたのです。

 

今朝の御言葉の最後の23節を見ますと、イスカリオテのユダの裏切りを宣告された主イエスの御言葉を聴いたとき「弟子たちは、自分たちのうちのだれが、そんな事を(主イエスを裏切ることを)しようとしているのだろうと、互いに論じはじめた」と記されています。これこそ、私たちの姿そのものではないでしょうか。いつも、神に対して、自分の外側に罪があるように考えているのが私たちなのです。「自分には関係の無いことだ」と思うのです。しかし、そうではありません。まさに私たち全ての者の罪の贖いのため、全ての人の救いのために、主は十字架への道を歩んで下さいます。聖餐の制定の出来事は、まさにその十字架への道の真っただ中において、現わされたものなのです。だからこそそれは、私たちに対する救いの出来事なのです。祈りましょう。