説    教       出エジプト記122527節  ルカ福音書22713

                 「過越の食事の備え」 ルカ福音書講解〔193

                   2023・11・26(説教23482042)

 

 「(7)さて、過越の小羊をほふるべき除酵祭の日がきたので、(8)イエスはペテロとヨハネとを使いに出して言われた、「行って、過越の食事ができるように準備をしなさい」。(9)彼らは言った、「どこに準備をしたらよいのですか」。(10)イエスは言われた、「市内にはいったら、水がめを持っている男に出会うであろう。その人がはいる家までついて行って、(11)その家の主人に言いなさい、『弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます』。(12)すると、その主人は席の整えられた二階の広間を見せてくれるから、そこに用意をしなさい」。(13)弟子たちは出て行ってみると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした」。

 

 今朝の御言葉の7節にいきなり「過越の小羊をほふるべき除酵祭の日がきたので」とありました。これは主イエス・キリストにとっては、全人類の罪の贖いのために十字架への道を(つまりゴルゴタの丘への道を)歩まれることを意味しています。なぜなら、先ほども併せてお読みした出エジプト記1225節以下でも明らかなように、旧約における過越の祭り(除酵祭=種入れぬパンの祭り)はすなわち、新約におけるキリストの十字架による贖いの御業を意味するものだからです。

 

 しかし、弟子たちはまだ、そのことを知りませんでした。主イエスがエルサレムに入られたのは、イスラエルの新しい王になられるためだと、新しいイスラエル王国を立ち上げるためだと、弟子たちは信じて疑いませんでした。だから8節に主イエスがペテロとヨハネとにお命じになって「行って、過越の食事ができるように準備をしなさい」と言われたときにも、彼らは、それは毎年恒例の過越の祭りの準備をおさせになるのだろうと思ったことでした。しかし、主イエスはイスラエルの王になられるべきかたです(弟子たちはみなそう思っていました)。だから、過越の祭りの準備と言っても、それなりの目立つ立派な場所が必要なはずでした。

 

 それで、ペテロとヨハネは9節に「どこに準備をしたらよいのですか?」と主イエスにお尋ねしたわけです。それに対する主イエスのお答えは不思議なものでした。今朝の10節以下をご覧ください。「(10) イエスは言われた、「市内にはいったら、水がめを持っている男に出会うであろう。その人がはいる家までついて行って、(11)その家の主人に言いなさい、『弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます』。(12)すると、その主人は席の整えられた二階の広間を見せてくれるから、そこに用意をしなさい」。

 

 ここでキーワード(キーパーソン)になっているのは「水がめを持っている男」です。もちろん、弟子たちには、それが誰であるか全くわかりませんでした。しかし「水瓶を持っている」というのですから、その人は、過越の祭りのために心をこめて場所を浄めようとしていた、そういう人であることは間違いないのです。主イエスはペテロとヨハネに「その人がはいる家までついて行って、(11)その家の主人に言いなさい、『弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます』。(12)すると、その主人は席の整えられた二階の広間を見せてくれるから、そこに用意をしなさい」と言われました。そして最後の13節を見ますと「(13)弟子たちは出て行ってみると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした」と記されているのです。

 

 そこで、この「席の整えられた二階の広間」というのは、おそらく、キリストの十二弟子ではなかったけれども、弟子になりたいと願っていたマルコという人の家の二階座敷であったと考えられています。そして「水瓶を持っている男」とはマルコ本人のことで、「その家の主人」というのはマルコの父親であっただろうと考えることができます。私は30年ほど前にエルサレムに参りましたとき、そのマルコの家の二階座敷(と言われている部屋)を実際に観ることができました。かなり大きな部屋でして、畳に直すなら50(つまり25)ぐらいはあると感じました。想像していたよりも明るい感じのする部屋でした。そこは、今朝の12節によれば、既にマルコと父親によって「席が整えられて」あったのです。つまり、マルコもその父親も主イエスをキリストと信じる人たちでした。彼らの手によって、主イエスと弟子たちをお迎えするための席の準備が整えられていたのです。

 

 そこで、次は十二弟子たちの務めです。ペテロとヨハネが(そして他の弟子たちが)その二階座敷でしたことは「過越の祭りの食事の準備をすること」でした。先ほど、過越の祭りは「除酵祭=種入れぬパンの祭り」とも呼ばれると申しましたけれども、その名のとおり、種入れぬパン(マッツァーと呼ばれる、クラッカーのような堅いパン)と、ぶどう酒が祭りのために(礼拝のために)必要でした。(ちなみにイスラエルではスーパーマーケットのようなところにもマッツァーが売られています)。そこで「パンとぶどう酒」と聴いたとき、私たちがすぐに思い浮かべるものは、それこそ聖餐におけるパンとぶどう酒のことではないでしょうか。つまり主イエスは、弟子たちに「聖餐式の準備をしなさい」とお命じになったのです。まさにそれが「過越の祭りの食事の準備をすること」だったのです。

 

 やや御言葉を先取りして申しますなら、主イエス・キリストは、弟子たちに(つまり愛する私たち一人びとりに)まさにそのマルコの家の二階座敷において、まずパンをお取りになってそれを祝福なさり、それからそれを弟子たちにお配りになられて、おごそかに言いたまいました。「取って食べなさい、これはあなたがたの罪の赦しと救いのために裂かれる私の身体である」。そして杯(ぶどう酒)をも、同じように弟子たちにお配りになって言われました。「取って飲みなさい、これは全ての人の罪の贖いのために流される私の血である」と。まさにそこで、マルコの家の二階座敷で、最初の聖餐式が、主イエス・キリストの御手によって、行われたのです。

 

 しかしその聖餐式は、ただ、主イエスの御手によって執り行われた、というだけではありませんでした。そもそも主イエスはなぜ、今朝の御言葉においてペテロとヨハネに「(8)行って、過越の食事ができるように準備をしなさい」とおっしゃったのでしょうか?。どうして「過越の食卓を整えなさい」ではなかったのでしょうか?。それはまさに「食事の準備」が、ここでは大切な意味を持っていたからです。主イエスは、ただ単に、最初の聖餐式の食事の(パンとぶどう酒の)準備をしなさいと、弟子たちに(私たちに)お命じになったのではありません。そうではなくて、主イエスはここではっきりと、御自身の全てを、存在と生命の全部を、私たち全ての者の罪の贖いのため、すなわち、私たちの救いと自由と生命のために、献げたもう「十字架の主」の道を歩んでおられる。ただ十字架の主としてのみ、御自身を私たちにお示しになられる。それゆえにこそ、主はいまここで私たち一人びとりに、ただ信仰を求めておいでになるのです。

 

 それは同時に、私たちがいまここで、主の御身体と御血にあずかる者たちとなることです。御言葉と聖霊によっていまここに現臨しておられる十字架の主に、生きたまことの信仰を告白する僕たちとなることです。キリストの御身体なる教会に連なる者たちとなることです。だから教会は「コイノニア」と呼ばれます。これは「ともにキリストがたまわる生命の糧にあずかる者たちの集い」という意味のギリシヤ語です。そこから教会が生まれました。信ずる者たちの群れが生まれました。「聖徒の交わり」がそこに誕生しました。私たち一人びとりがいま、その「聖徒の交わり」(communion of saints)に連なって生きる主の弟子たち、キリストの教会の教会員とされ、十字架と復活の主にいつも結ばれて、御言葉の糧に養われつつ、主の僕たちとして生きてゆく、幸いを与えられているのです。祈りましょう。