説    教            詩篇10921節  ルカ福音書2216

                 「イスカリオテのユダ」 ルカ福音書講解〔192

                   2023・11・19(説教23472041)

 

(1)さて、過越といわれている除酵祭が近づいた。(2)祭司長たちや律法学者たちは、どうかしてイエスを殺そうと計っていた。民衆を恐れていたからである。(3)そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった。(4)すなわち、彼は祭司長たちや宮守がしらたちのところへ行って、どうしてイエスを彼らに渡そうかと、その方法について協議した。(5)彼らは喜んで、ユダに金を与える取決めをした。(6)ユダはそれを承諾した。そして、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、機会をねらっていた」。

 

 今朝から私たちはルカ福音書の22章に入ります。そして私たちはここでいきなり、イスカリオテのユダという、一人の複雑な人間に直面します。もしも聖書が、人間の「きれいごと」ばかりを書いている書物なら、イスカリオテのユダについての全ての記録は抹消されていたことでしょう。しかし聖書は、人間の「きれいごと」ではなく、まさに罪人なる私たち人間の真実の姿を物語り、まさにそこに神による救いを告げている聖なる書物です。だから聖書は、イスカリオテのユダについての言及を避けないのです。つまり、私たちはイスカリオテのユダという人間に真正面から向き合うのみならず、まさに私たち一人びとりへ救いの福音を聴く者として、いまここに集められいるのです。

 

 私は絵を観ることが好きで、最近は時間が無くて行きませんが、以前はよく美術館に参りました。そこで、西洋の絵画を見ているうちに、ひとつの事実に気が付きました。それは、12世紀から16世紀頃までの、いわゆる中世の絵画においては、キリストの十二弟子を描いた絵の中に、イスカリオテのユダの姿をすぐに見つけることができます。なぜなら、イスカリオテのユダはとても醜い悪人(悪魔)の姿に描かれているからです。ところが17世紀以降の近世に入りますと、誰がイスカリオテのユダなのかわからない描きかたへと変化して参ります。どういうことかと申しますと、イスカリオテのユダは決して特別な人間なんかではない、私たちと全く同じ人間なんだ、もっと言うなら、私たちだってユダになりうるんだ、そういうことを表現しているのが、17世紀以降の絵画の特色であるということです。

 

 「付和雷同」という言葉があります。意見や主義主張が衝突して、多勢に無勢になった場合、常に多勢の側についていれば保身ができる(安全なんだ)という考えかたですね。政治の世界などはいつもそうした「多数決の論理」が幅を利かせます。イスカリオテのユダという人は、そういう価値観を持っていた、いわば常識的な(政治的な)人間の一人であったようです。先ほどお読みした御言葉の2節に「(2)祭司長たちや律法学者たちは、どうかしてイエスを殺そうと計っていた。民衆を恐れていたからである」とありました。これは、祭司長や律法学者たちは、主なる神の御言葉ではなくて、民衆の声、つまり「多数決の論理」を自分の価値観としていたということです。

 

 イスカリオテのユダは、そこに深く共鳴するものを感じたのではなかったでしょうか。だからこそユダにとって、もう一つの重要なファクター(行動の動機付け)になったものは、主イエスがキリスト(救い主=メシア)であられては困るという価値観です。ユダにとってイエスは、イスラエルの王になるべきかたでした。ところが、事態はどんどん十字架の方向に動いている。十字架の刑は呪われた罪人が受けるものです。いまのままの流れですと、主イエスは(民衆を扇動した罪で)ローマに対する反逆者として十字架での処刑はまぬかれえないだろう。そうなると、自分もローマに対する反逆者の弟子として巻き添えをくらうだろう。そうなったら、もう自分の将来は真っ暗だ。

 

 そう考えましたユダは「それならいっそのこと」とこう考えました。主イエスさまがローマに逮捕される前に、祭司長や律法学者たちに逮捕させたほうがよほどマシではないか。それなら、十字架刑だけは免れるだろう(十字架刑はローマ帝国の処刑方法だったからです)。ユダはとても頭の良い人でした。今後おこりうる場面を次から次へと想像しまして、その想像の範囲内で、最も自分に直接の害が及ばない道を考えたわけです。それが、主イエスを祭司長や律法学者たちに逮捕させることでした。ようするにユダは、主イエスを裏切り、主イエスを銀貨30枚で売ることによって、自分の身の安全を確保しようとしたわけです。言い換えるなら、十字架という泥船から一刻も早く避難しようとしたわけです。

 

 そうすると、こういうことは(自己保身に走ることは)私たちにとっても、決して珍しいことではないのではないでしょうか。多数派に寝返り、自己保身の道を模索し、そのためには大切な人をさえ裏切る、ある意味において、それは「自己保身的な人間なら誰でもがすること、してきたこと」だとさえ言えるのではないでしょうか。もちろん、ユダのしたことは主イエスに対する裏切りです。そして、結果は、ユダの思惑とは反して、主イエスの十字架への道備えとなってしまいました。なぜなら、律法学者や祭司長には、律法に背いた者を逮捕する権限はありましたが、死刑にする権限はなかったため、彼らはそれをローマ総督ポンテオ・ピラトの手に委ねたからです。

 

 さて、今朝の御言葉の3節と4節にはこうございます。「(3)そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった。(4)すなわち、彼は祭司長たちや宮守がしらたちのところへ行って、どうしてイエスを彼らに渡そうかと、その方法について協議した」。サタン(悪魔)は時として、常識的な、自分を賢いと信じて疑わない人間を誘惑に陥らせるのです。ユダはまんまとサタンの言いなりになってしまいます。すなわち、神の御子イエス・キリストを、呪われた十字架にかけるための道を備えてしまうのです。サタンの手先になってしまうのです。私たち人間は、神の手足となって働くよりも、サタンの手足になることを望んでいると思しき節があるのではいでしょうか。

 

そして、他の福音書を見ますと、ユダは主イエスを銀貨30枚で売ったことを(裏切ったことを)心から悔いて、その銀貨を祭司長たちのところに返しに行っているのです。ところが、その時の祭司長らの返事はつれないものでした。マタイ伝271節以下です。「(1)夜が明けると、祭司長たち、民の長老たち一同は、イエスを殺そうとして協議をこらした上、(2)イエスを縛って引き出し、総督ピラトに渡した。(3)そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して(4)言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。(5)そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ」。

 

 ここに、私たち人間の罪の本当の恐ろしさが現れています。他者の罪の告白を非情にも突き放し「自分で始末をするがよい」と言い放つ罪です。この言葉によって完全に絶望したユダは、銀貨を聖所に投げ込んでそこを立ち去り、かわいそうに、自殺してしまったのでした。もしもこのとき、ユダが、祭司長らのところにではなく、主イエスのもとに身を投げかけて、自分の罪を告白したら、どうなったでしょうか?主イエスは必ず、ユダの罪を赦して、彼を立ち上がらせ、そして立ち直らせて下さって、弟子たる道を歩ませて下さったに違いありません。

 

 同じ経験を、ペテロも、ヨハネも、ヤコブも、トマスも、他の十二弟子たち全員がしています。ユダが犯した罪は、他の弟子たちの罪でもあり、そして、ここに集うている私たち自身の罪でもあるのではないでしょうか。そのとき、主がユダに、弟子たちに、私たちに求めておられることは、犯した罪のあるがままに、主イエスに身を投げかけて、赦しを戴くことではないでしょうか。今朝の詩編10921節に、このような祈りがございました。「しかし、わが主なる神よ、あなたはみ名のために、わたしを顧みてください。あなたのいつくしみの深きにより、わたしをお助けください」。まさにこれこそ、本当はユダが、主イエスに対して言いたかったこと(祈りたかったこと)ではなかったでしょうか。

 

 私たちは、いま、この祈りのもとに集められています。そして、主イエス・キリストは、まさに私たち一人びとりの罪を担って、あの十字架への道を歩んで下さいました。御自身の全てを、生命さえも献げて、私たちの贖いとなって下さいました。主は必ず、私たちを立ち上がらせて下さるかたです。赦しを与え、力と希望と平和を与えて下さるかたです。この主イエス・キリストのもとに、私たちはいつも招かれ、そして新しい一週間の旅路へと遣わされてゆく、そのような平安と幸いを与えられているのです。祈りましょう。