説    教          詩篇2715節  ルカ福音書213738

                  「主の家に住む」 ルカ福音書講解〔191

                   2023・11・12(説教23462039)

 

 「(37)イエスは昼のあいだは宮で教え、夜には出て行ってオリブという山で夜をすごしておられた。(38)民衆はみな、み教を聞こうとして、いつも朝早く宮に行き、イエスのもとに集まった」。今朝のこの短い御言葉は、ルカ伝福音書に特徴的なもので、いわゆるその章の「まとめ」に相当するものです。しかし、これは単なる付け足しの文書ではなく、とても大切な福音が宣べ伝えられていると思いますので、ご一緒に気をつけて読んで参りたいと思います。

 

 まず、最初の37節を見ますと「(37)イエスは昼のあいだは宮で教え、夜には出て行ってオリブという山で夜をすごしておられた」とございます。私たちはこの御言葉によって、エルサレムで主イエスがどのような生活をなさっておられたのかがわかるわけです。「宮」というのはエルサレム神殿です。朝から日没までは主イエスはエルサレム神殿の「異邦人の中庭」と呼ばれる境内で、集まってきた民衆たちに福音の御言葉を語りたまい、そして日が暮れますと「オリブという山で夜を過ごしておられた」これはゲツセマネの園で祈りを献げておられたのです。つまり「昼は説教、夜は祈り」これが主イエスの生活であったということがわかるのです。

 

 そして、続く38節にはこのようにございます。「(38)民衆はみな、み教を聞こうとして、いつも朝早く宮に行き、イエスのもとに集まった」。この「民衆」と言いますのには2種類の人々がいました。@選民と呼ばれたユダヤ人と、Aユダヤ人以外の人々(異邦人)です。いまイスラエルのガザ地区ではハマスとイスラエル軍の武力衝突が生じているわけですが(しかもハマスは卑劣にもガザ地区の民間人、特にお年寄りや子供たちや病院を盾にしてゲリラ戦を展開しているわけですが)今朝の御言葉のここには、その両者が共に仲良く席を並べて主イエスの語られる説教を聴いている様子が記されているわけです。

 

 ここからなにがわかるかと申しますと、戦争は「ひとつの正義と別の正義との激突」です。両者ともにそれぞれの正義を主張してやまないところに武力衝突が(戦争が)起こるのです。それは言い換えるなら「言葉どうしの激突」です。論戦がやがて昂じて戦争へと発展するのです。それなら、なぜ今朝の御言葉の「民衆」たちが仲良く席を並べていたかと申しますと、それは両者ともに「みな(主イエスが語られる)御教を聴こうとして、いつも朝早く宮に行き、イエスのもとに」集まっていたからなのです。

 

つまり、自分たちの言葉をいったん置いて、それをいったん棄てて、主イエスの御言葉(福音)のもとに集まったからです。そこに平和と一致が生まれたのです。逆に申しますなら、私たち人間の平和と一致は、ただそこにしか実現しないのです。神の御言葉、生命の福音、主イエス・キリストの御言葉を、共に聴くところにだけ、人間どうし、国どうし、民族どうしの一致と平和が生まれるのです。そのことを、今朝の御言葉は明確に私たちに語り告げているわけです。

 

 第二次世界大戦が終わったとき、ある人がカール・バルトに訊ねました「先生、なぜこの世界にあのような悲惨な戦争が(第一次世界大戦と第二次世界大戦が)起こったのでしょうか?」バルトの答えは明快でした「私たちが本気で神の言葉を信じなかったからです」。これを言い換えるなら、もし私たちが(世界中の人々が)本気で神の言葉を(十字架と復活の主イエス・キリストを)信じるなら、永遠の平和が必ず実現するということです。真の平和の実現はそれ以外にはありえないということです。もう少しこのことを申しますと、ここでバルトが語った「本気で」というのはドイツ語で言うなら“ernsthaft”という形容詞なのですが、この言葉は「神に対する誠実さ」を意味します。現代社会は、今日の世界は、まさにこの「神に対する誠実さ」を(John Oman の言うHonesty to God)問われているのではないでしょうか。

 

 今朝、併せてお読みした旧約聖書・詩篇第27篇の4節に、このようにございました「(4)わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを」。かつて東京神学大学に竹森満佐一という先生がおられまして(連合長老会でも熊野義孝先生や上良康先生などとともに指導的な立場におられた先生です)神学校の学長をなさったのですが、引退されるときに神学校の礼拝堂で最終講義をなさいました。私はそのころ東京の教会におりましたのでその最終講義を聴きに行くことができました。その中で竹森先生はこの詩篇274節に触れられまして「ここに神学の目的そのものがある」と言われたのです。そのことをいま鮮やかに思い出すのです。

 

 それは同時に、私たちキリスト者の生活の全目的と言うべきではないでしょうか。(4)わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを」。今朝の説教題を「主の家に住む」といたしましたけれども、それはなにも、私たちがいつも教会にいるとか、修道院のようなところで生活するとか、そういう意味ではないのです。そうではなくて、私たちの日常生活の全てが、いつもキリストの現臨のもとにある喜びと幸いが語られているのです。キリストがいつも共におられる。それにまさる喜びと幸いがどこにあるでしょうか。

 

 そういうことを考えますとき、先ほど、主イエスは、夜はオリブ山のゲツセマネの園で「祈りの生活」をなさっておられたと申しました。「昼は説教、夜は祈り」それか主イエスの日常生活であられたのです。それならば、こういうことになるのではないでしょうか。朝早く神殿の中庭に主イエスの説教を聴くために集まってきた民衆たち、彼らは(ユダヤ人たちも異邦人たちも)夜には自分たちの家に帰って行ったのです。少しおかしな言いかたですが、主イエスただお一人を残して、人々はみな、自分たちの家に帰って行ったのです。では、残された主イエスは何をなさったのか?。主イエスはどのように朝までの時間をお過ごしになられたのか?。それこそ、ゲツセマネの園での祈りでした。

 

 ユダヤ人も異邦人も含めて、全世界の全ての人の救いと平和のために、主イエスはゲツセマネの園で、文字どおり「血の汗を流したもうて」祈られたのです。それは執り成しの祈りです。そして、私たち全ての者の罪を負うて十字架への道を歩まれたのです。つまり、主イエスの十字架への歩みは既にここに始まっているのです。主イエスはいま、まさにあなたのために十字架を負いたもうおかたとして、十字架の主として、ここに現臨しておられる。私たちの日常生活のただ中に現臨しておられる。まさに十字架と復活の主として、私たちといつも共にいて下さるのです。

 

 (4)わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを」。竹森先生はこうも言われました「これは決して、ロマンチックな詠嘆などではないのです。人生のあらゆる苦難と悲しみのただ中で、そこでこそ、このただひとつの幸いと喜びが、私たちを死を超えてまでも支え続け、生かし続けるのです」。私たちはいま、その生命の御言葉を与えられています。否、十字架と復活の主イエス・キリストの現臨のもとに生きる者たちとされています。そこにのみ、そこにこそ、この歴史的現実世界の真の平和と一致の道があります。ただそこにのみ、私たちの変わらぬ喜びと幸いがあります。いま、そのことを共々に主に感謝し、心を高く上げて、主に贖われた者として、キリスト者として、新しい一週間を歩んで参りましょう。祈りましょう。