説    教          イザヤ書1236節  ルカ福音書212936

                  「されど我が言は」 ルカ福音書講解〔190

                   2023・11・05(説教23452038)

 

(29)それから一つの譬を話された、「いちじくの木を、またすべての木を見なさい。(30)はや芽を出せば、あなたがたはそれを見て、夏がすでに近いと、自分で気づくのである。(31)このようにあなたがたも、これらの事が起るのを見たなら、神の国が近いのだとさとりなさい。(32)よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。(33)天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。(34)あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。(35)その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから。(36)これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」。

 

 今朝のルカ伝2129節以下において、主イエスはまず「いちじくの木の譬」をお話しなさいます。(29)いちじくの木を、またすべての木を見なさい。(30)はや芽を出せば、あなたがたはそれを見て、夏がすでに近いと、自分で気づくのである。(31)このようにあなたがたも、これらの事が起るのを見たなら、神の国が近いのだとさとりなさい」。そして続く32節に、このようにおっしゃいました。「(32) よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない」。これは、今まで私たちが読んで参りました、このルカ伝21章の全ての御言葉をさしています。すなわち、この21章で語られていた数々の苦難や戦争や天変地異、それらはこの世界の滅びの徴には違いないのですけれども、まさにその滅びゆく世界を救うためにこそ、主は十字架への道を歩んで下さった。だから、キリストの来臨によって、それらの苦難や天変地異は、むしろ、神の国が近づいている徴となるのだとおっしゃっておられるのです。

 

 そして大切なのは33節以下です「(33)天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない」。私たちキリスト者は、本気でこのことを信じる者たちなのです。たとえ天地は滅びるとも、神の御言葉はけっして滅びることはない、このことを私たちは、本気で信じる者たちです。それがキリスト者であるということです。

 

 これは、どういうことなのでしょうか?。実は381年に制定されたニカイア信条の中に、私たちが聖餐式のたびに告白するニカイア信条の中に、この御言葉を正しく読み解く大切な鍵があります。それは、神の御子イエス・キリストについて「すべてのものはこのかたによって造られました」と告白されていることです。つまり、御子なるイエス・キリストも、父なる神と同様に、天地万物の創造の御業にかかわっておられたということです。もちろん聖霊も同じです。父・御子・聖霊なる三位一体の唯一の神は、創造主(Creator)であられるのです。

 

 それは、具体的には、どのような福音を私たちに物語っているのでしょうか?。それは、この宇宙の万物は、無目的かつ偶然に生じたものではなくて、神が永遠の愛と目的をもって創造された、かけがえのない世界であり、同時に、私たちという存在もまた、そのようなかけがえのない価値と目的を持った者たちなのだということです。そして、主なる神が永遠の愛と目的をもって創造された世界であり、私たちであるということは、たとえ罪による混乱と苦難がそこにあろうとも、いかなる暗い出来事があっても、それをも神はこの世界と歴史の完成のため、そして私たちの救いのためにお用いになって、やがて完成の喜びと幸いに至らせて下さるということです。これを「摂理の信仰」と言います。

 

 摂理とは、英語で申しますなら“Providence”ですが、その本来の意味は「予め見ている」ということです。さらに申しますなら「私たちを救いと完成へと導くために、主なる神は予め見て、私たち(と世界と歴史の全体を)生命の道を歩ませて下さる」という意味になるのです。まさにそのことを、私たちは今朝の御言葉を通して告げ示され、信ずる者たちとされているのです。つまり「(33)天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない」とは「たとえ世界が滅亡しても神様だけは滅びないんだ」ということではなくて、まさに混乱と苦しみのただ中にあるこの歴史的現実世界と私たちを救い、やがて主が再び世に来られるとき、完成の喜びと幸いを与えて下さるために、主なる神はいま、創造主として、私たちを生命の御言葉によって永遠の御国へと導いて下さるのです。それが「摂理の信仰」です。

 

 ですから、この「摂理の信仰」に堅く立つ私たちは、いま心新たに、今朝の34節以下の主の御言葉を聴く者となることを求められているのではないでしょうか。「(34)あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。(35)その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから。(36)これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」。

 

罪は(悪魔は)巧妙に私たちキリスト者を誘惑してこう言うのです。「ほうらどうだ、おまえたちがいくら一生懸命に神を信じ、忠実に礼拝を献げようとも、この歴史的現実世界はなお、罪の支配の下にあるじゃあないか。おまえたちがどんなに神を(十字架のキリストを)信じて生きようとも、この世界の現実は少しも変わらないではないか。もう神を信じることなんか辞めてしまえ。教会に行くことなんか辞めてしまえ。礼拝なんかなんの意味もないのだ」と。それはあたかも、荒野において悪魔が主イエスを試みて「もしおまえが神ではなく、私を信じるなら、この全世界をおまえに与えよう」と唆したことと同じ誘惑なのです。

 

 まさに、そのような、悪魔の誘惑の跳梁跋扈するこの世界、この時代にありまして、私たちキリスト者は「摂理の信仰」に堅く立ち続ける者たちです。なぜでしょうか?。私たちはいま、主の御口から親しく聴いているからです。「(33)天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない」と。この世界と宇宙に満ち満つる全ての可視的世界が(物質的世界が)過ぎ去り滅びましょうとも、私たちに与えられている救いの約束は、決して過ぎ去ったり滅びたりすることはないのです。17世紀イギリスの詩人ジョン・ミルトン(長老教会の長老として、忠実な信仰の生涯を歩んだ人ですが)はソネットの中でこう歌っています。「我らは、我らを取り囲んでいる荒波の様子にいたく驚き、恐れを抱く。されど安心せよ。我らが立つところの岩は決して揺るぐことはないのだ」。まさにその「揺るがぬ岩」こそ、十字架と復活の主イエス・キリストなのです。

 

 まさにこのミルトンのソネットが、今朝の33節の御言葉の見事な解釈なのです。たとえこの世界が滅びに瀕しようとも、主なる神はその世界が滅びずして、信ずる私たちが滅びずして、完成の喜びと幸いの日を迎えることができるように、そして、永遠の御国が目に見える形で実現するように、御子イエス・キリストが十字架の道を歩んで下さり、私たち全ての者の罪の贖いとして十字架上に、御自身の全てを献げ尽くして下さった。まさにその十字架と復活の主イエス・キリストこそ「揺るがぬ岩」にいましたもうのです。私たちはその揺るがぬ岩に立つ者たちである。永遠なる御言葉に生かされ養われてゆく僕たちである。そこに、私たちのかわらぬ喜びと幸い、平安と慰めと力があるのです。祈りましょう。