説    教           イザヤ書1110節  ルカ福音書212028

                  「人の子の来臨」 ルカ福音書講解〔189

                   2023・10・29(説教23442036)

 

 今朝、私たちに与えられておりますルカ伝2120節以下の御言葉、そのうちの25節以下を改めて口語訳でお読みしたいと思います。「(25)また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、(26)人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう。もろもろの天体が揺り動かされるからである。(27)そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。(28)これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」。

 

 主イエス・キリストは、今朝のこのルカ伝2120節以下の御言葉において、エルサレムが敵国の軍隊によって侵略され、蹂躙されて、文字どおり壊滅させられることをお語りになっておられます。それは事実として西暦70年に、ローマ帝国の正規軍によるエルサレム包囲戦によって現実のものとなりました。それがイスラエルの人々の記憶にとってどんなに悲惨なものであったかは、今朝の20節以下の御言葉がよく物語っているわけです。しかし、主イエスはまさに、そのような壊滅的な出来事のただ中においてこそ、私たちのこの歴史的現実の世界に御言葉を宣べ伝えておられるのです。それが今朝の25節以下です。

 

 「(25)また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、(26)人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう。もろもろの天体が揺り動かされるからである」。この歴史的現実世界に起こるであろう破局的な出来事に際して、全世界の人々は「恐怖と不安で気絶するであろう」と主は言われるのです。それほどの恐ろしいことが現実に起こる世界に私たちは存在しているのだということです。それは同時に、いま現実に、ロシアによるウクライナ侵略戦争、そしてイスラム暴力テロ組織ハマスの、幼子や女性や高齢者さえも虐殺し凌辱し拉致したテロ行為と、その結果であるガザ地区の空爆によっても、現実味を帯びたものになっているのではないでしょうか。事実として、この歴史的現実世界は、私たちの想像を遥かに超えた恐ろしいことが、当たり前のように起こる世界なのです。

 

 しかしながら、まさにそのような恐ろしい出来事が平然と起こるこの現実世界のただ中においてこそ、主イエス・キリストは、今朝の27節以下の御言葉を私たちにお語りになるのです。「(27)そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。(28)これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」。主は私たち一人びとりにこう言われるのです「これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい」と。苦しみや悲しみの経験の中では、私たちは「身を起こす」どころか、逆に身を屈めてしまうのではないでしょうか?。身を屈めるとは、自分の内側に閉じ籠ろうとすることです。苦しみの時の防衛本能と言ってもよいでしょう。できるだけダメージを受ける表面積を小さくしようとするから身を屈めるのです。

 

 しかし、主イエス・キリストは、思いがけない苦難や悲しみの中で、身を屈めてしまう私たちにこそ告げておられるのです。「(28)これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」と。なぜでしょうか?。その理由は27節に明確に語られています。「(27)そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」。この「人の子」というのは、主イエス・キリスト、しかも十字架の主イエス・キリストのことをさしています。私たちの救いと自由と平安のために、私たちの存在を罪あるがままに丸ごと担い取って、あのゴルゴタに続く悲しみの道(ヴィア・ドロローサ)を、十字架を背負って歩いて下さった主イエス・キリストのお姿です。

 

それは、言い換えるなら、本来なら私たちが受けなければならなかった、罪の結果であるところの死と滅びを、私たちの身代わりとなって一身に引き受けて下さった十字架の主のお姿なのです。 新約聖書の元々の言葉であるギリシヤ語で「キリストによる罪の贖い」のことをアポルトルーシスと言いますが、それは「代価を払って自由にされること」を意味します。罪と死の支配に捕らわれていた私たちは、ただ神の御子イエス・キリストのみが、その罪の代価を私たちの身代わりになって支払って下さって、私たちの贖いを成し遂げて下さったのです。だから私たちは信仰によって、聖霊によって教会に連なることにより、この十字架の主の贖いの恵みに身も魂も全存在を護られた者とされるのです。

 

 つまり、こういうことになります。十字架の主イエス・キリストの贖いの恵みのもとに生きる私たちは、もはや「身を屈めて生きる」必要は無いのです。そうではなく「身を起し頭をもたげる」ことができるのです。私たちの人生に、不意に襲ってくるいかなる苦難や悲しみの経験の中にありましても、私たちは十字架の主の贖いの恵みのもとに立つ者として「身を起し頭をもたげる」ことができるのです。十字架の主イエス・キリストみずから、私たち一人びとりに「あなたはもう、身を屈めている必要なんかないんだよ」と語り告げていて下さる。主イエス・キリストは私たち一人びとりに「さあ、私の贖いの恵みのもとに、勇気をもって生き続けなさい。あなたは身を起こし、頭をもたげることができるのだから」と、はっきりと語り告げていて下さるかたなのです。

 

 今朝、併せてお読みした旧約聖書・イザヤ書1110節に、このように告げられてていました。「(10)その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある」。ここで「エッサイの根」と呼ばれているのは主イエス・キリストのことをさしています。つまり今朝のルカ伝2127節の「人の子」と同じように、これは十字架の主イエス・キリストをさし示している指示代名詞です。そして「人の子」は「大いなる力と栄光とをもって…雲に乗って来る」と記されているのを受けて、預言者イザヤは「(それは) 立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある」と告げているのです。

 

 これは、どういうことでしょうか?。ここでも私たちは、今朝の御言葉が鮮やかに十字架の主の贖いの恵みを告げ示していることを知らされるのではないでしょうか。人の子なるキリストは永遠の神の唯一の独子ですから、その本質は神と等しいものであり、いわば神の栄光の輝きはそのまま、主イエス・キリストのものでもあるのです。しかしながら、同時に、その主イエス・キリストは、私たちの罪の贖いのために、あの呪いの十字架を担い取って下さったおかたでもあります。それならば、主イエス・キリストは、ただ単に栄光に輝くおかたであるのではなく、同時に十字架の主として、私たちの罪のどん底にまで下って来て下さったおかたです。いと高き神と本質を同じくしたもう主が、私たちの救いのために、罪の暗黒の最底辺にまで降って来て下さった。そのようにして、罪と死の支配から私たちを贖い取って下さった。そこに聖書が告げている福音の本質があるのです。

 

 まさにその、十字架の主による罪と死からの贖いの恵みを、預言者イザヤは「もろもろの民の旗」と称えて「その置かれるところに栄光がある」と告げているのです。この「栄光」という字は「救い」という意味です。言い換えるなら、十字架の主があなたのために来て下さった所に、あなたの救いがあるのだと告げられているわけです。では、その、十字架の主が、あなたのために来て下さった場所とは、いったいどこのことなのでしょうか?。それこそ、混乱と分裂、対立と戦乱の渦巻く、この歴史的現実世界ではないでしょうか。十字架の主は、私たちの現実のただ中にこそ、十字架による贖いの恵みをもって、罪の最底辺にまで降りて来て下さったおかたなのです。そのようにして、私たちの罪を贖い、この歴史的現実世界を罪の支配から解放して、諸国民に自由と平和をもたらし、癒しと救いを与え、信ずる全ての者たちに永遠の生命を与えて下さるおかたなのです。

 

そのおかたを私たちは「十字架の主イエス・キリスト」とお呼びし、信じ告白しているのです。祈りましょう。