説    教      出エジプト記41012節  ルカ福音書211019

                 「神による言葉と知恵」ルカ福音書講解〔188

                  2023・10・22(説教23432035)

 

(10)それから彼らに言われた、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。(11)また大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆があるであろう。(12)しかし、これらのあらゆる出来事のある前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。(13)それは、あなたがたがあかしをする機会となるであろう。(14)だから、どう答弁しようかと、前もって考えておかないことに心を決めなさい。(15)あなたの反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを、わたしが授けるから。(16)しかし、あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう。(17)また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。(18)しかし、あなたがたの髪の毛一すじでも失われることはない。(19)あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう」。

 

 ルカ伝21章に入りますと、私たちにとって恐ろしさを感じさせられる言葉が続いて出て参ります。これは状況としては、主イエスが十字架におかかりになる約一週間前の、エルサレム神殿の中庭における説教の言葉でした。ですから今朝のこの御言葉をお語りになられた主イエスは、もう一週間の後には十字架にかけられ、死にて葬られたもうたのです。いわばこれらの御言葉(説教)は主イエスの決別の説教、遺言のようなものだと言ってよいのです。

 

そこで、まず最初の10節を見ますと「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう」とあります。これはまさに現代の国際社会においても頻繁に見られる対立と戦争の現実ではないでしょうか。そして11節には「大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆があるであろう」と語られています。東日本大震災、トルコとシリアの大地震、地球規模の環境破壊による異常気象などなど、これらの自然災害の恐ろしさもまた枚挙に暇がありません。そしてそれと同時に12節にありますように。「これらのあらゆる出来事のある前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう」と主イエスは言われるのです。

 

 破滅的な戦争や自然災害の恐ろしさに加えて、厳しい迫害の嵐が吹き荒れるであろうと主イエスはおっしゃるのです。事実、エルサレムやローマを中心とした初代教会の信徒たちは、ローマ帝国(ローマ皇帝)による約280年間の厳しい迫害を経験しました。なぜ初代教会のキリスト者たちは迫害されたのか、その理由は突き詰めるならただ一つのことでした。それは、初代教会の使徒たちや信者たちが、ローマ皇帝に対して「キュリオス=主」という称号を用いることを拒否したためでした。私たちキリスト者にとって「主」はただお一人、十字架の復活の主イエス・キリストのみです。神も唯一であって、主イエス・キリストの父なる神、つまり父・御子・聖霊なる三位一体の唯一の神がいましたもうのみです。ですからローマ皇帝に対して「主」という称号を用いることを拒否し、ローマ皇帝の神格化を拒絶した初代教会のキリスト者たちは、ローマ皇帝の権威に逆らう者たちとして厳しい迫害を受けたのです。

 

 西暦325年に今日のトルコのニカイアにおいてニカイア公会議が行われ、そこに約400名の、当時のキリスト教会の代表者たちが世界中から集められましたけれども、その多くが迫害による傷跡のある身体でした。目をえぐり取られた人、腕や足を切り落とされた人、迫害によって身体障碍者となった人々が(神学者たちやビショップたちが)当時の全世界の教会の代表としてニカイアに集まったのでした。当時のローマ皇帝であったコンスタンティヌス自らが議長を務めました。開会礼拝において、コンスタンティヌス皇帝は自らの冠を脱ぎ捨て、そして「あなたがたが迫害によって受けた、栄光に輝く数々の傷跡に較べるなら、私が戴くこの王冠の輝きなど無に等しい」と語ったと伝えられているのです。その様子が今日私たちが歌う讃美歌662節の歌詞にもなっています。「聖なる、聖なる、聖なるかな。神の御前に、聖徒らも、冠を棄てて、伏し拝み、御使いたちも、御名を讃む」。

 

 さて、今朝の御言葉に戻りましょう。大切なのは今朝の13節以下です。「(13)それは(迫害は)あなたがたがあかしをする機会となるであろう。(14)だから、どう答弁しようかと、前もって考えておかないことに心を決めなさい。(15)あなたの反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを、わたしが授けるから」。私たちは何か苦しいことや辛いことが思いがけず身に降りかかってきたとき、あまりの心労によって言葉を失ってしまうことが多いのではないでしょうか。あるいは、たとえ言葉を失うことはないにしても、語るべき相応しい言葉は失われてしまい、逆に、語るべきではないことを口走ってしまう、そういう経験をするのではないでしょうか。

 

 しかし、そのような私たち一人びとりに、主イエス・キリストははっきりと語っていて下さいます。「(14) どう答弁しようかと、前もって考えておかないことに心を決めなさい。(15)あなたの反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを、わたしが授けるから」と。試みや試練を受けたとき、なによりも大切なことは、私たちが自己正当化(自己義認)という冠を神の御前に脱ぎ捨てて、千々に思い乱れる心のあるがままに、まず神の御手に自分を投げ出すことではないでしょうか。それは礼拝と祈りの生活の延長線上にのみある魂の平安です。なぜでしょうか?主イエスみずからはっきりと約束して下さっているからです「(15)あなたの反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを、わたしが授けるから」。

 

 大きな悩みや苦しみや悲しみの経験の中で、単に言葉だけではなく「知恵」をも、主なる神は私たち一人びとりに与えて下さると告げられているのです。この「知恵」という字はラテン語で言うならソフィアです。信仰に基づく真の知恵のことです。つまり、人間的な知識や経験に基づく知恵ではなく、神が聖霊によって私たちの心と魂に直接に与えて下さる、信仰に基づく知恵のことです。それをラテン語ではソフィアと呼ぶのです。そして、このソフィア(神による真の知恵)にはとても大きな特徴があります。それは、この真の知恵は、私たちに真の自由と平安を与えるものだということです。大きな苦しみや悩みの中で、私たちの心はいつの間にか硬直化し、語るべき言葉を失い、閉じ籠ってしまうのですけれども、神からの言葉と知恵は、私たち一人びとりに、苦しみや悩みのただ中においてこそ、本当の自由と平安を与え、硬直化した心を柔らかな、血の通ったものとなして、語るべき言葉を授け、今朝の13節にありますように、私たちがキリストの恵みのご支配を「証しする機会」となして下さるのです。

 

 使徒パウロも、執事ステパノも、使徒ヨハネも、ペテロも、ヤコブやピリポやテモテやエパフロデトも、キリストの証人とされた使徒たちはみな、この「神による言葉と知恵」の導きによって、神の御前に正しい判断を為し、正しい道を歩み、多くの人々に御言葉を宣べ伝える務めを全うすることができたのです。それはただ2000年前の出来事なのでしょうか?。そうではありません。いまここに集うている私たち一人びとりが、この数多くの苦難や争いや試練に満ちた時代にありまして、生きた主の弟子となるために、まさに主なる神の御手から「神による言葉と知恵」とを戴いて生きる僕たちとされているのです。祈りましょう。