説    教           歴代誌下232930節  ルカ福音書2159

                 「ハルマゲドン」ルカ福音書講解〔187

                   2023・10・15(説教23422034)

 

 「(5)ある人々が、見事な石と奉納物とで宮が飾られていることを話していたので、イエスは言われた、(6)「あなたがたはこれらのものをながめているが、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう」。(7)そこで彼らはたずねた、「先生、では、いつそんなことが起るのでしょうか。またそんなことが起るような場合には、どんな前兆がありますか」。(8)イエスが言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな。(9)戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」。

 

 ルカ伝215節以下、36節までは、私たちの読んだ印象としては、たいへん暗い御言葉が続いています。主イエスはいわゆる「世の終わりには何が起こるか」ということについて教えておられるように見えるからです。たしかに、今朝の215節以下でもそういう印象があります。ある人が壮麗なエルサレム神殿のことを褒め称えていたところ、主イエスはその話を中断させるかのように6節に「あなたがたはこれらのものをながめているが、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう」とおっしゃったのです。これはようするに「この壮麗なエルサレム神殿が木っ端みじんに破壊される日が来るであろう」と言われたのです。

 

 私たちの生きているこの21世紀も、多くの人々の願いや努力とは裏腹に、地球上のいたるところで破壊と殺戮、憎しみと分裂の、数知れぬ悲劇が絶えず起こっているのではないでしょうか。21世紀はまだ四半世紀に満たない歩みに過ぎませんけれども、既に世紀末的な混沌とした様相を呈していると言っても過言ではないのです。ロシアによるウクライナ侵略戦争、そしてイスラム原理主義武装組織であるハマスによるイスラエルに対する残虐な無差別テロなど、枚挙にいとまがありません。そこで昔から、このような破壊と分裂の混沌とした世界情勢を「ハルマゲドン」と呼んできました。その根拠は旧約聖書の、今朝あわせてお読みした列王記下2329節と30節の御言葉にあります。そこを改めて口語で読んでみましょう。

 

 「(29)ヨシヤの世にエジプトの王パロ・ネコが、アッスリヤの王のところへ行こうと、ユフラテ川をさして上ってきたので、ヨシヤ王は彼を迎え撃とうと出て行ったが、パロ・ネコは彼を見るや、メギドにおいて彼を殺した。(30)その家来たちは彼の死体を車に載せ、メギドからエルサレムに運んで彼の墓に葬った。国の民はヨシヤの子エホアハズを立て、彼に油を注ぎ、王として父に代らせた」。

 

時は紀元前609年のことですから、今から2632年も昔の出来事です。当時のイスラエルの王ヨシヤ(神は助けたもう、という意味)は、イスラエルに善政を行い、国民の平和と福祉のために全力を尽くし、バアルの偶像を国内から一掃し、まことの神のみを礼拝する信仰の改革を行った、英明な立派な王でした。この信仰の改革のことを「ヨシヤ王の宗教改革」と呼びます。ところが、当時のエジプトの王・ファラオ(パロ)ネコ二世は、東のアッシリア帝国と提携してイスラエルを攻め滅ぼそうとしました。ヨシヤ王は義勇軍を激励してよく戦いましたが、ついに紀元前609年に、イスラエル北部のイズレエル平原にあるメギドの丘で、ファラオ(パロ)ネコ二世の大軍に敗れ、戦死してしまいます。先ほどお読みした列王記下2329,30節は、まさにヨシヤ王がメギドの丘の激戦で戦死した時の様子を伝えているわけです。

 

イスラエルの民は、この偉大な王の死に測り知れない衝撃を受け、大きな悲しみにくれました。それで、メギドの丘を意味するヘブライ語である「ハル・マガダン」がいつしか「ハルマゲドン」すなわち世界の終末という意味になったのです。このハルマゲドンという言葉は映画やアニメのタイトルにもなりましたから、日本でも広く知られたヘブライ語のひとつにもなりました。

 

 さて、そこで、今朝の主イエスの御言葉に戻りましょう。エルサレム神殿の破壊についての予告に驚いた人々は、主イエスに訊ねました。今朝の7節です。「(7) そこで彼らはたずねた、「先生、では、いつそんなことが起るのでしょうか。またそんなことが起るような場合には、どんな前兆がありますか」。これに対して主イエスはこうお答えになりました。今朝の8節以下をご覧ください。「(8) イエスが言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな。(9)戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」。

 

 まず8節において主イエスは「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい」と私たちにお教えになっておられます。この「惑わされる」とは元々のギリシヤ語で申しますなら「正しくない道に案内される」という言葉です。ミスリードされるということです。人々の不安な気持ちや悲しみにつけいるようにして、間違った道へと案内しようとする者たちが現れる、それに気をつけなさいと主イエスは教えておられるのです。その「惑わす者」の最たるものが、自分こそキリストである、救い主であると自称して、人々をミスリードしようとする者たちだと主イエスは言われるのです。

 

 つい先日のことですが、私は知らない団体から英語のメールをもらいました。いまイスラエルとハマスの間て起こっている武力衝突に触れて、それこそは聖書が語っているハルマゲドン(世界の最終戦争)だと思うが、あなたはどう思いますか?という内容のメールでした。そこで私は今朝の御言葉の9節をそのまま英語で引用して彼らに送りました。「ここにこそ答えがある。あなたはどう思うか?」と私は書きました。返事はありませんでした。「(9)戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」。私たちはこの主イエスの御言葉こそ大切だと思うのです。

 

 ハルマゲドンを煽り立てて人々を不安に陥れることは簡単なことです。しかし、ハルマゲドンの本当の意味は、まさに9節で主イエスがお語りになっておられるように「(9)戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」ということなのです。そしてさらに大切なことは、主イエスはここではっきりと「おじ恐れてはならない」とお教えになっておられる。これは、たとえあなたが人生の中で、大きな不安に感じることがあったとしても、あなたは怖れに取り憑かれる必要なんか無いのだと、はっきりと主イエスは告げていて下さるのです。どうしてでしょうか?。その答えは今朝の御言葉の8節の終わりに示されています。「(8)イエスが言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな」。ここで主イエスは「彼らについて行くな」と、弟子たちに(私たちに)語り告げていて下さいます。

 

 この「彼らについて行くな」とは「私についてきなさい」という意味の言葉です。主イエス・キリストは、不安な時代に生きる私たちに、ただ「惑わされるな」「ミスリードされるな」「誰にもついて行くな」と教えておられるのではないのです。そうではなく、大切なことは、主イエス・キリストは「あなたは、私について来なさい」「私に従って来なさい」と告げておられるかたなのです。いつもはっきりと、主イエスは私たちに「あなたは、私に従って来なさい」と告げていて下さるのです。

 

 ハルマゲドンを想起させる言葉がこのルカ伝21章の36節まで続くのですけれども、どうか私たちはこのことをこそ思い起こしたいのです。それは、この御言葉を語っておられる主イエス・キリストは、わずか一週間の後には、私たちの罪を背負って、私たちの身代わりになりたもうて、あの呪いの十字架におかかりになっておられるのです。ハル・マガダン(メギドの丘)どころではない、ゴルゴタの丘(しゃれこうべの丘)で、主イエス・キリストは、私たちの救いのために、御自身の全てを献げ尽くして、私たちの贖いを成し遂げて下さいました。救いを成し遂げて下さったのです。まさにその十字架の主イエス・キリストが、ハル・ガルガダ(ゴルゴタの丘で十字架におかかりになられた)の主が、私たちにいま、はっきりと告げていて下さるのです。

 

あなたは、どんなことがあっても、私に従って来なさいと。あなたは、どんなことがあっても、私を信じなさいと。あなたは、私の贖いの恵みのもとにいるのだ。あなたのために、私は十字架を担ったのだ。だから安心していなさい。不安を感じるときにも、もはや恐れに取り憑かれる必要はないのだ。あなたは永遠に変わらず、私のものだからだ。