説    教           歴代誌下12910節  ルカ福音書2114

                 「生命の科をことごとく」ルカ福音書講解〔186

                   2023・10・08(説教23412033)

 

 「(1)イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、(2)また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て(3)言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。(4)これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。

 

 今朝のこのルカ伝211節以下の御言葉は、聖書の福音書中でも、比較的多くの人々に知られている物語かもしれません。場所はエルサレムの神殿の「異邦人の中庭」と呼ばれる広場でのことでした。主イエスや弟子たちが見ているとき、ちょうど一人の貧しいやもめ(戦争や病気などで夫に先立たれた婦人)がやって来て、レプタ銅貨2枚を献げたのでした。それをご覧になった主イエスは弟子たちに、今朝の3節以下にありますように「(3) よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。(4)これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」とおっしゃった。物語の流れから致しますと、むしろ単純な出来事であります。

 

 仏教にも「貧者の一灯」という有名な例え話があります。仏前に灯されたたくさんの灯の中で、たった一つだけ、風が吹いても消えない灯があった、それは、村でいちばん貧しいやもめの婦人が献げた灯であった、という話です。これなどと共通点があるように思われるのが今朝のルカ伝211節以下の御言葉なのです。その共通点と申しますのは、貧しい人の献げものであったという点です。貧しい人が献げたものですから、それはたとえ小さなものであっても、大きな献げものなのだという共通項でです。いわゆる感動美談になる共通項です。

 

 では、今朝のこのルカ伝の御言葉も、そのような感動美談として理解して良いのでしょうか?。たしかに、主イエスは弟子たちに「(3)よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。(4)これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」とおっしゃいました。これを聴いた弟子たちも、感動したことでしょう。周囲にいた群衆も同様であったでしょう。しかし大切なことは、主イエスはいまここに集まっている私たち一人びとりに、この御言葉を語っておられるのだという事実です。そしてこれは、私たちを悔改めへと導き、真の自由と平安を与え、救いをもたらす、福音の御言葉なのです。

 

 だいぶ以前のこと、私が葉山教会に赴任して間もない30年近く前のことですが、私はとてもショックを受けた一つの出来事がありました。それは、当時の葉山教会のある長老が(長老ですよ!)私にこう言ったのです。「イエス様はレプタ2つを献げたやもめを褒めて下さったのですよね。だから献金の額は、なるべく少ないほうが良いのですよね」。この人は本気で、まじめに、そう言っているのかと、疑いましたけれども、残念なことに彼は大真面目でそう言っていました。少なくともこの長老は、今朝のルカ伝211節以下の御言葉の意味をぜんぜん理解していない、否、完全に間違って理解していたと言わざるをえません。

 

 皆さんはどうでしょうか?。むしろこのようなことは、改めて申すまでもないことと思われるかもしれません。主イエスがこのやもめの献げものを祝福して下さったのは、レプタ銅貨2枚というその額の多少などではないのてす。「献金は少なくて良いのだよ」とおっしゃったのではないのです。そうではなくて、彼女は貧しかったにもかかわらず、その持てる全財産を献げたからです。つまり、この女性にとってレプタ銅貨2(今日の金額に換算するならおよそ200)は、彼女にとって「有り金の全て」だったのです。彼女はその「有り金の全て」を献げることによって、彼女自身の生活の全てを主なる神に献げたのです。だからこそ主イエスは今朝の3節において「(3)よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。(4)これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」とおっしゃったのです。

 

 そこで、この4節の「持っている生活費全部」という言葉を、昔の文語訳聖書では「生命の科をことごとく」と訳しています。これは口語訳の「生活費全部」というより遥かに優れた訳だと私は思います。なぜなら「生活費全部」は単純にお金のことだけをさしていますが「生命の科をことごとく」というのは、単にお金のことだけではなく、このやもめの婦人の生活の全てをあらわす言葉だからです。さらに言うなら「生命の科をことごとく」とは、私たちの全生活、全存在、それこそ生命活動の全体、つまり信仰生活の全てをさしているからです。

 

 今朝の御言葉の1節に「さいせん箱」という、聖書では珍しい言葉が出てきます。これは、当時のエルサレム神殿の「異邦人の中庭」に12個ならべて置かれていた、ラッパのような形をした献金箱(献金筒)のことです。それは金属で造られていましたから、そして当時のお金はみんなコインでしたから、たくさんのコインを(金貨や銀貨を)投げ入れたなら、それこそ華やかで賑やかな「ジャランジャラン」という音がしたことでした。しかし、このやもめの婦人の献げものはレプタ銅貨2枚でしたから、ほとんど音などしなかったのでした。見ていた人たちも失笑したかもしれない。それを主イエスはご覧になって、いや、このやもめの婦人こそ、ほかの誰よりもたくさんの献げものをしたのだと言われたのです。なぜなら、彼女こそは「生命の科をことごとく」献げたからです。

 

 私たちはどうでしょうか?。私たちは、献金も含めて、このやもめの婦人のように「生命の科をことごとく」献げる信仰生活をしているでしょうか?。それこそ、献金の金額の問題ではないのてす。大切なことは、ここに集うている私たち一人びとりが、いま、そしていつも、このやもめの婦人にとってのレプタ銅貨2枚と同じような献げものをしているかどうかという問題なのです。人がどう見るかではありません。華やかで賑やかな音がするかどうかという問題ではないのです。そうではなくて、私たち一人びとりの献金も含めての全ての献げものか、いつも「生命の科をことごとく」になっているかどうかということが大切なのです。