説    教               箴言1612節  ルカ福音書204547

                  「偽善に陥るなかれ」ルカ福音書講解〔185

                   2023・10・01(説教23402032)

 

 「(45)民衆がみな聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた、(46)「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くのを好み、広場での敬礼や会堂の上席や宴会の上座をよろこび、(47)やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。

 

 主イエスは律法学者たち、特にパリサイ派とサドカイ派の人々に対して、聖なる追撃の手を緩めたまいません。彼らはともに当時のイスラエルの宗教的指導者層であり、ユダヤの一般民衆からは大きな尊敬を受けていました。しかしその教えはいつしか形骸化して陳腐な律法解釈に陥り、いわゆる「これをしてはならない、あれもしてはならない」というような、道徳的禁止事項のみが要求されるような、生命の無いものになり果てていたのです。

 

 この、形骸化したパリサイ派やサドカイ派の人々の教えに対して、主イエスは、集まって来ていたエルサレムの民衆たちと十二弟子たちに、このようにお教えになりました。今朝の御言葉の46節と47節です。「(46) 律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くのを好み、広場での敬礼や会堂の上席や宴会の上座をよろこび、(47)やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。

 

 まず、主イエスはここで「もっときびしいさばき」という言葉をお用いになっておられます。それは、パリサイ派やサドカイ派の人々が、いつも「さばき」という言葉を用いて一般民衆を脅すような教えを語っていたからです。彼らによれば、律法の規定を全て守らなければ神からの救いは得られないのであって、それが不可能な一般民衆は必然的に「救われざる民=地の民=人間のクズ」なのでした。それに対して、パリサイ派もサドカイ派も、自分たちこそは律法を完全に守っているゆえに、当然救われるべき「選ばれし者」であるとして、特権階級意識をもって一般民衆を見下していたわけです。

 

 まさにこの、特権階級意識の塊のようなパリサイ派やサドカイ派の律法学者たちに対して、主イエスは聖なる鉄槌をお下しになるのです。「(46) 律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くのを好み、広場での敬礼や会堂の上席や宴会の上座をよろこび、(47)やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」と。「長い衣」「広場での敬礼」「宴会の上座」そのようなものが神の御前に、いったい何の価値があろうかと断言なさるのです。これはようするに、今朝の説教題ともいたしましたれども「偽善に陥るなかれ」という鉄槌でした。これを聴いていたパリサイ派やサドカイ派の人々は、青ざめて怒りに震えていたことでありましょう。これに対して、エルサレムの一般民衆は拍手喝采して主イエスの御言葉を聴いていたかもしれません。

 

 それでは、今朝のこの主イエスの御言葉は、二千年前の当時の偽善的な律法学者たちだけに向けられたものであって、今ここに集うている私たちには関係のないものなのでしょうか?。つまり、私たちはいま、どちらの側に自分を置いているのでしょうか?。主イエスの御言葉を聴いて、青ざめて怒りに震えている律法学者の側にか、それとも、留飲を下げられて拍手喝采しているエルサレムの一般民衆の側にか。そのどちらに、私たちはいま立っているのでしょうか?。

 

 今朝、併せてお読みした旧約聖書・箴言1612節に、このような御言葉がございました。「(1)心にはかることは人に属し、舌の答は主から出る。(2)人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる」。今朝の説教題を「偽善に陥るなかれ」といたしましたけれども、もしも聖なる神のまなざしにさらされるなら、私たちも、否、私たちこそ、あんがい毎日のように偽善に生きてしまっていることはないでしょうか?。それは、いまのこの箴言の御言葉によれば、たとえ自分の眼にはすべて潔し(何の問題もない)と見えることでも、主なる神はその人の魂の姿をご覧になられるからです。

 

 ここでいきなり外国語の話になって恐縮ですけれども、ドイツ語では偽善のことを“Scheinheiligkeit”と言うのです(ほかにも“Heuchelei”という言いかたもありますが)。これは「見せかけだけの神聖さ」という意味の言葉です。つまり、外面上だけ神に従っている人の姿、それが“Scheinheiligkeit”です。そしてルターはこの言葉をしばしば説教の中に用いています。自分も含めて、私たち全ての者が、実は聖なる神のまなざしから見るならば「見せかけだけの神聖さ」に生きていることはないだろうかと問うのです。外面上だけ神に従っている、外面上だけ御言葉に聴き従っている、外面上だけキリスト者のふりをしている、そういう私たちになっていることはないだろうかと問うのです。

 

 そのとき、ルターが語っている言葉が、あの有名な「大胆に罪を犯せ、そして大胆にキリストに立ち帰れ」という言葉です。これはもちろん「私たちは大きな罪を犯してもかまわないんだ」という自己肯定(自己義認)の意味などではなくて、神の御前に自分が罪人であることを隠すな、そして大胆果敢にキリストに立ち帰る者となれ、という意味です。もっと言うなら、私たちの罪の姿は、主なる神の御目にこそ明らかなのです。私たちは自分の知恵や力で、自分の罪の姿を見ることはできないのです。だから、私たちが救いを得るのは、少しも私たち自身の知恵や力や努力によってではないのです。ただキリストのみが、私たちの唯一絶対の救い主にいましたもうのです。そのことをルターは「大胆に罪を犯せ、そして大胆にキリストに立ち帰れ」という言葉であらわしているわけです。