説    教                 詩篇1101節  ルカ福音書204144

                  「神の御子キリスト」ルカ福音書講解〔184

                   2023・09・24(説教23392031)

 

 キリスト教が日本に伝わって150年、フランシスコ・ザビエルの時代から数えるなら(途中で300年間の中断がありますが)450年、とても不思議に感じることがございます。それは、いまもなお日本人のほとんどが「イエス・キリスト」という言葉の意味をさえ全く理解していないという事実です。キリスト教が近代日本社会に与えた影響には計り知れないものがあるのです。学校しかり、病院しかり、社会福祉事業しかり、民主主義の理念しかり。そして日本全国に約3000もの教会があります。そのような事実の半面、では「イエス・キリストとは、どのような意味の言葉ですか?」と問われたなら、おそらく99%以上の日本人が、正しく答えることができないのではないでしょうか。

 

 否、これは決して他人事ではないのです。ちなみに、ここに集うている皆さんはどうお答えになるでしょうか?。「イエス・キリストとは、どのような意味の言葉ですか?」。その答えは、もう既にいま皆さんの心の中にあると思います。イエス・キリストとは、2000年前にユダヤのベツレヘムにお生まれになったイエスは、真の唯一の神の永遠の御子であられる。父なる神と本質を同じくしたもう救い主キリストであられる。そういう意味の言葉であります。つまりイエス・キリストとは「イエスはキリストであられる=イエスは永遠の神の独子であられる」という意味の、信仰告白の言葉なのです。イエス・キリストという言葉そのものが既に信仰告白なのです。

 

 改めて、今朝の御言葉であるルカ伝2041節以下を、口語訳で読んでみましょう。「(41) イエスは彼らに言われた、「どうして人々はキリストをダビデの子だと言うのか。(42)ダビデ自身が詩篇の中で言っている、『主はわが主に仰せになった、(43)あなたの敵をあなたの足台とする時までは、わたしの右に座していなさい』。(44)このように、ダビデはキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。おそらくこの主イエスの言葉は、先週も登場したサドカイ派の律法学者たちに対して語られたものでありましょう。そして、ここで主イエスが「どうして人々はキリストをダビデの子だと言うのか」とおっしゃっておられるのは、ロバの子にお乗りになってエルサレムに入城された主イエスを、群衆が「ダビデの子ホサナ」と叫んで喜び迎えたことをさしておられるのだと思います。

 

 そもそも、私たちもある讃美歌の中で主イエスのことを「ホサナ、ホサナ、ダビデの子」と歌いますけれども、主イエスご自身はここで明確に、ご自分がダビデの子(つまりダビデの家系に属する者)であることを否定なさっておられるのです。いや、主イエスは肉によれば紀元前9世紀のダビデ王の家系に連なっていることは事実でありましたけれども、ここで主イエスが明確におっしゃっておられることは、ご自分は(主イエスは)ダビデ王の子孫なのではなくて、父なる神の永遠の独子として、つまり神の御子として、この歴史的現実世界のただ中に遣わされたおかたなのだという事実です。ということは、主イエス・キリストは、もしも私たちが「イエス・キリストは、人間なのか?それとも神なのか?」と問われるなら、明確に「このかたは神であられる」と答えるほかはない、そういうおかたなのだということです。

 

 いまから約1700年前の西暦325年に、ニカイア公会議という、キリスト教会における最初の公会議(全世界の教会の代表者を集めた公会議)が開催されました。場所は今日のトルコのイスタンブールから東に150キロほど離れたところにあるニカイアという町の聖マリア大聖堂でした。大きな美しい湖のほとりにあった教会です。(現在でも聖マリア大聖堂はありますが、湖のほとりから町の中心部に移転しています)。さて、そのニカイア公会議における最大の議題は「イエス・キリストとは、いかなるおかたなのか?」ということでした。この大問題を巡って、最初に自説を主張したのはアリウスという当代きっての大神学者でした。

 

アリウスによれば、イエス・キリストは、神ではなくて、神に最も近い人間である。つまり、キリストが「神の御子」と呼ばれるのは、神に最も近づくことのできた人間だからである。つまり、キリストは限りなく神に近い人間である。しかし、神そのものではないのだから被造物である。このことを現すためにアリウスは“homoousios”という言葉を用いました。訳せば「類似している」という意味です。つまり、アリウスによれば、キリストは神に類似した人間であるというのです。そして会議は、このアリウスの主張に傾きかけていました。

 

 この様子を見て、当時若干24歳の青年だった、アレキサンドリアのアタナシウスという人が発言を求めました。しかしアタナシウスには、ニカイア公会議の正議員の資格がありませんでした。いわば議員のカバン持ちとして傍聴していた人に過ぎなかったわけです。しかし、議長を務めていたローマ皇帝コンスタンティヌスはこのアタナシウスに2日間の発言権を与えました。そして、アタナシウスはその2日間を最大限有効に用いてアリウスの所説に対して反論しました。つまり、アタナシウスは2日間不眠不休で反対の弁論を行ったのです。

 

 その2日間アタナシウスが語った言葉は、イギリスのカーディナル・ヘンリー・ニューマンによってギリシヤ語から英訳されていて読むことができます。それによれば、アタナシウスはおもに2つの点でアリウスに反論したのです。第一に、アリウスによれば、イエス・キリストは「神ではなく人間である」と言うが、もしそうなら、キリストという言葉を用いることはできなくなる。なぜなら、キリストとは、ヘブライ語のメシア(神から遣わされた救い主)を意味しているのであって、もしもイエスが人間にすぎないとしたら、それはもはやメシアではありえなくなるからだ。第二に、もしもイエス・キリストが神ではなく人間であるというのなら、キリストによる救いは、人間の力に基づく救いであるということになる。そうすると、その救いは、限定的であり、過ぎゆくべきものであり、不確定なものであり、時間的なものであり、なによりも、死に打ち勝つものではありえなくなる。

 

 アタナシウスはアリウスの所説に反対して、イエス・キリストは、聖書が明確に示しているように、真の神の真の独子であられること、そして、それゆえに、イエス・キリストが私たちに与えて下さった救いは、無限的なものであり、滅びないものであり、確実なものであり、永遠のものであり、罪と死に打ち勝つものであると主張したのでした。そして、そのことをあらわすために、アタナシウスは“homoiousios”という言葉を用いました。これはアリウスが用いた“homoousios(類似的している)に対して「同質である」という意味のギリシヤ語です。

 

 このアタナシウスの22晩にわたる弁論の結果、公会議の流れはアリウスが主張する哲学的・主知主義的な類似神キリスト論から、福音的・聖書的・神学的な神の御子キリスト論へと転じてゆき、その結果が今日も私たちが聖餐式のたびに告白するニカイア・コンスタンチノポリス信条の制定へと繋がっていったわけであります。つまり、イエス・キリストは「…光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました」という告白へと繋がっていったわけです。私たちはいま、この正統的キリスト告白に立つ群れであり、聖徒の交わりとして、ここに集められているのです。

 

 なによりも、今朝の御言葉で主イエスが語っておられるように、ダビデ自身がキリストのことを「わが主よ」と呼んでいるのです。それならば、キリストはダビデの子ではなくてダビデの主であります。キリストは永遠の神の独子として、私たちの唯一絶対の救い主であられ、神の御子であられ、私たちの救いのために、十字架の死による贖いの御業を成し遂げて下さり、御自身の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会を通して、聖霊と御言葉によって現臨して下さり、私たち全ての者に復活の生命を与えて下さり、永遠に共にいて下さるおかたなのです。だからこそ、私たちはこのかたを主イエス・キリストとお呼びするのです。祈りましょう。