説    教            出エジプト記36節  ルカ福音書202740

                 「復活問答」ルカ福音書講解〔183

                   2023・09・17(説教23382030)

 

 「(27)復活ということはないと言い張っていたサドカイ人のある者たちが、イエスに近寄ってきて質問した、(28)「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています、『もしある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだなら、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。(29)ところで、ここに七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、(30)そして次男、三男と、次々に、その女をめとり、(31)七人とも同様に、子をもうけずに死にました。(32)のちに、その女も死にました。(33)さて、復活の時には、この女は七人のうち、だれの妻になるのですか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。(34)イエスは彼らに言われた、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、(35)かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。(36)彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。(37)死人がよみがえることは、モーセも柴の篇で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、これを示した。(38)神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」。(39)律法学者のうちのある人々が答えて言った、「先生、仰せのとおりです」。(40)彼らはそれ以上何もあえて問いかけようとしなかった」。

 

 パリサイ派の律法学者たちは主イエスを「カイザルに対する納税問題」で試みようとしましたが、次に難問を吹きかけてきたのはサドカイ派の人々でした。サドカイ派というのは大祭司ザドクを祖先に持つ(と主張していた)祭司の集団のことであり、当時のユダヤにおいてパリサイ派と同じぐらい、否、それ以上の政治的・宗教的権威を持っていた人々でした。そこで、このサドカイ派の人々は主イエスにどのような難問を吹きかけてきたのかと申しますと、それは復活に関する問いでした。今朝の説教の題を「復活問答」とした理由はそこにございます。ひとつ、心に留めておいて頂きたいことは、サドカイ派の人々は復活それ自体を否定していた。民衆にも「復活などというものはない」と教えていた、そういう人々であったということです。今朝の冒頭の27節にも「復活ということはないと言い張っていたサドカイ人のある者たちが」とあるとおりです。

 

 そこで、このサドカイ派の人々が主イエスに訊ねて申しますには、あるところに七人の兄弟がいて、最初に長男が妻をめとったが、死んでしまったので、次男が彼女を妻に迎えた。しかしその次男も死んでしまい、次に三男が彼女を妻に迎え、そうしているうちに、同じ一人の女性を妻にした七人の兄弟が全部死んでしまった。最後に彼女も死んだ。その場合、その女性は最終的に、いったい誰の妻になるのか?という質問であったわけです。33節を見ますと「さて、復活の時には、この女は七人のうち、だれの妻になるのですか。七人とも彼女を妻にしたのですが」とございます。つまり、この質問は復活を否定し茶化すために仕組まれたものであったと言えるでしょう。

 

 主イエスというかたは、このようなふざけた質問に対しても、いつも誠実に、神の権威をもってお答えになられるかたです。どうぞ今朝の34節以下をご覧ください。「(34)イエスは彼らに言われた、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、(35)かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。(36)彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。(37)死人がよみがえることは、モーセも柴の篇で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、これを示した。(38)神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」。

 

 これは、非常に厳粛な、そして聖書の御言葉に基づく、正しく的確なお答えでした。まず主イエスは「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、(35)かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない」と言われました。結婚というものは歴史における秩序なのであって、歴史を超えた永遠なる神の御国においては「死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない」と、はっきりとお教えになったのです。これはもちろん、この世における結婚制度を軽んじておられるのではありません。そうではなくて、永遠なる神の御国においては、結婚という歴史における秩序を超えた、さらに大きな祝福が与えられるのだと言われたのです。

 

 さらに続けて、主イエスはこうも言われました。今朝の36節です。「(36)彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである」。ここに、神の国に迎え入れられた人々は「天使に等しいもの」なのだということが明確に示されています。天使とは、聖書の中にはガブリエルとか、ミカエルとか、いろいろな天使が出て参りますけれども、ご注意いただきたいことは、天使は神ではありません。神は唯一なるおかただからです。天使は私たちと同じ、神の被造物(神によって造られた存在)であり、一意専心に神にお仕えするために聖別された者たちのことです。ですから天使の務めは神の御言葉に仕えることです。事実として天使を意味する英語の“Angel”は「御言葉を宣べ伝える者」を意味する“Angelous”というギリシヤ語に由来しているのです。それは福音(Euangelion)と同じ語源の言葉です。

 

 かつてドイツに、ディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)という、たいへん優れた神学者がおりました。もちろん牧師でもあった人です。ナチスのユダヤ人迫害政策に正面から反対して、ついには強制収容所で終戦の4日前に処刑されてしまった人です。殉教の死であったと言ってもよいでしょう。このボンヘッファー牧師には、マリア・ヴェデマイヤーという婚約者がいました。ボンヘッファーはついに彼女との結婚を果たせぬまま処刑されてしまうのですが、処刑される数日前に、マリアにあてて手紙を書いています。そこには、今朝の御言葉の36節が引用されています。ボンヘッファー牧師はこう語っているのです「私たちはこの地上においては結婚することができなかった。しかし永遠なる神の御国において、神の恵みによって、ともに天使に等しい務めが与えられていることを信じます。それを心から待ち望み、喜ぼう。そして、神の御国で再会するまで、あなたには、この地上で末永く幸せな人生を歩んでほしい」。私は、ボンヘッファー牧師が婚約者にあてて書いたこの手紙こそ、今朝の御言葉の最も的確な注解のひとつであると思っています。

 

 そしてさらに、主イエスの御言葉は続きます。今朝の37節以下です。「(37)死人がよみがえることは、モーセも柴の篇で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、これを示した。(38)神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」。主イエスのこの御言葉は、神は信じる全ての人に(私たちに)真の生命を与えて下さるかたであることを明確に示しています。『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』の後には、私たち一人びとりの名前が入るからです。だから38節にあるように「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」であり、だからこそ主イエスは最後に「人はみな神に生きるものだからである」とおっしゃっておられるのです。

 

 どうぞこのことを、忘れないようにいたしましょう。「人はみな神に生きるものだからである」。私たちは真の神を知り、真の神に、十字架の主イエス・キリストによって立ち帰り、結ばれてこそ、本当に生きた者とされるのです。永遠の生命が、永遠なる神との永遠の交わりが、私たちの歴史的かつ有限的な人生のただ中に現れるのです。そのとき、私たちは知るようになるでありましょう。『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』であられる真の神が、実にあなたの神でもあられることを。もし復活が無ければ、私たちの救いはありえないのです。事実とて、十字架の主イエス・キリストは、三日目に墓から甦って下さり、罪によって死んでいた私たちを、聖なる高度の使徒的なる教会、すなわち聖徒の交わりを通して、御自身の復活の生命(永遠の生命)に結んで下さり、永遠の御国の民として下さったのです。天使に等しい務めを与えて下さったのです。

 

 それは、神の御言葉によって生かされてゆく、真に自由な、勇敢な、慰めに満ちた人生の歩みです。キリスト者としての歩みです。礼拝者としての歩みです。それが、この地上の歴史においても、永遠なる神の御国においても、変わることのない、唯一の天使的職務(聖徒の交わりに生きる私たちの職務)なのです。祈りましょう。