説    教              詩篇3212節  ルカ福音書201926

                 「神のものは神に」ルカ福音書講解〔182

                   2023・09・10(説教23372029)

 

 「(19)このとき、律法学者たちや祭司長たちはイエスに手をかけようと思ったが、民衆を恐れた。いまの譬が自分たちに当てて語られたのだと、悟ったからである。(20)そこで、彼らは機会をうかがい、義人を装うまわし者どもを送って、イエスを総督の支配と権威とに引き渡すため、その言葉じりを捕えさせようとした。(21)彼らは尋ねて言った、「先生、わたしたちは、あなたの語り教えられることが正しく、また、あなたは分け隔てをなさらず、真理に基いて神の道を教えておられることを、承知しています。(22)ところで、カイザルに貢を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。(23)イエスは彼らの悪巧みを見破って言われた、(24)「デナリを見せなさい。それにあるのは、だれの肖像、だれの記号なのか」。「カイザルのです」と、彼らが答えた。(25)するとイエスは彼らに言われた、「それなら、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。(26)そこで彼らは、民衆の前でイエスの言葉じりを捕えることができず、その答に驚嘆して、黙ってしまった」。

 

 今朝の20節に「義人を装うまわし者ども」という興味ぶかい言葉が出てきます。これは当時のイスラエルの国家宗教であったパリサイ派のユダヤ教の教師を名乗る者のことです。かれらはよく「義人」つまり聖書を教える教師のふりをして人に近づき、論争を挑みかけてその相手を失脚させるという手口を行っていました。そこでこの日も「律法学者たちや祭司長たち」は、主イエスにこの「義人を装うまわし者ども」をさし向けて、民衆の見ている前で主イエスの言葉尻を捕らえ、主イエスに対する民衆の信頼を失わせ、失脚させようと画策したわけであります。

 

 どうぞ21節をご覧ください「(21) 彼らは尋ねて言った、「先生、わたしたちは、あなたの語り教えられることが正しく、また、あなたは分け隔てをなさらず、真理に基いて神の道を教えておられることを、承知しています。(22)ところで、カイザルに貢を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。この「カイザル」というのはローマ皇帝のことです。当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあった植民地でしたから、国民はみな、ローマ皇帝に対して多額の税金を納める義務があったのです。当然のことながら、愛国心に富んだ一般のユダヤ人たちからは、この税金制度は非常に不評判でした。事実「熱心党」(ゼーロータイ)という秘密結社は、事あるごとにローマ皇帝に対する税金に反対し、ローマの役人やそれを支持するサドカイ派に対するテロ行為を行うなど、社会不安を煽り立てるようなことをしていたのです。

 

 ですから、まさにこの、ローマへの納税の義務を巡る論争は、主イエスを陥れようとする者たちにとって、格好の罠だったのです。もしも主イエスが「カイザルに対する納税の義務は当然のことだ」と答えたなら、主イエスはたちまち、愛国的なユダヤの一般民衆の支持を失うでしょう。その逆に、もしも主イエスが「いや、カイザルに税金など納めるべきではない」と答えたなら、それこそローマ帝国に対する反逆罪ということで、すぐに主イエスを逮捕して処刑することができたわけです。ですから、いずれにしてもこれは、巧妙に仕掛けられた罠であり、まさに諸刃の剣のような質問でした。

 

 さて、では、この難しい罠のような質問に対して、主イエスはどのようにお応えになったのでしょうか?。どうぞ今朝の23節以下をご覧ください。「(23)イエスは彼らの悪巧みを見破って言われた、(24)「デナリを見せなさい。それにあるのは、だれの肖像、だれの記号なのか」。「カイザルのです」と、彼らが答えた。(25)するとイエスは彼らに言われた、「それなら、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。(26)そこで彼らは、民衆の前でイエスの言葉じりを捕えることができず、その答に驚嘆して、黙ってしまった」。

 

 まず23節に「イエスは彼らの悪巧みを見破って…」とございます。主イエス・キリストは、私たちの心の奥底の、そのまた奥底までも見通すことのできるおかたです。神の御前には、私たちは何ひとつ隠れたものを持ちえないからです。主イエスはまず、パリサイ人らに対して「デナリを見せなさい」と、デナリ銀貨を持って来て見せるように要求なさいました。かれらが主イエスにもとに1デナリ銀貨を持ってきますと、主イエスはそこに刻印された肖像を指さして「それにあるのは、だれの肖像、だれの記号なのか」と、訊きたもうたのであります。当時の貨幣には必ず、ローマ皇帝の肖像が刻印されていました。(ここに実物のレプリカがありますから、礼拝のあとで手に取ってご覧ください)

 

そこで、主イエスに「ここに刻印されているのは、だれの肖像、だれの記号なのか」と訊かれた彼らは、仕方なしに「カイザルのです」と答えました。すると主イエスは最後に「それなら、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」とおっしゃったのです。銀貨に、コインに、ローマ皇帝の肖像が刻印されているのなら、それはローマ皇帝のものなのだから、ローマ皇帝に返すがよい。しかし、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。この主イエスの意外なお答えに、彼らは誰も二の句を継ぐことができませんでした。今朝の26節を見ますと「(26)そこで彼らは、民衆の前でイエスの言葉じりを捕えることができず、その答に驚嘆して、黙ってしまった」と記されています。この「驚嘆した」とは「恐れて打ち砕かれた」という意味の言葉です。つまり、パリサイ人たちは、主イエスのお答えに「恐れて打ち砕かれ」悔改めを経験したのであります。

 

 さて、では、どうして、パリサイ人らは主イエスのお答えによって悔改めへと導かれたのでしょうか。その理由は、主イエスが「カイザルのものはカイザルに返しなさい」だけではなく、続いて「神のものは神に返しなさい」とおっしゃったからだと思います。コインにローマ皇帝の肖像が刻印されているのだから、それはローマ皇帝に返せばよい、というだけのことなら、それは単なるモノの帰属の問題にすぎません。言い換えるなら「これは誰の所有なのか」という問題にすぎないということです。しかし主イエスはさらに進んで「神のものは神に返しなさい」と言われました。これは、単なるモノの帰属の問題などではないのです。

 

 そうではなくて「神のものは神に返しなさい」という主イエスの御言葉は、それを聴く私たちの心を「神の所有ではないものがこの世界にありうるのか?」という、神と物質の関係、ひいては、神と私たちとの関係の問題へと誘うからです。すると、どうでしょうか?神の所有でないものがこの世界に、宇宙に、ひとつでもあるのでしょうか?。さらに言うならば、神とは無関係に存在しているもの、存在それ自体が神に対して治外法権を持っているモノが、この世界にひとつでも存在するのでしょうか?。その答えは「否」であります。創世記11節に「初めに神は天と地とを創造された」とありますが、その「天と地」とは宇宙に満ち満ちている全存在のことを言い表しているのです。

 

 それは私たち一人びとりのことを考えればわかることです。私たちは人間として、誰一人として同じ存在はありません。一人びとりが特殊な、唯一の、かけがえのない「汝」として、この世界に存在せしめられているのです。そして、その私たちの存在理由をずっと辿ってゆくとき、私たちは必ず、神の摂理の御手をそこに見出すのです。言い換えるなら、神の前に「どうでもよい存在」は一人もいないということです。全ての人が「かけがえのない、唯一の汝」として、人生の旅路を歩む者とされているのです。そのあなたは、いつも、どこにいても、変わることなく、神の所有である。神の愛したもうかけがえのないあなたである。あなたの代わりはどこにもいないのだ。そういうことを、主イエスは今朝の御言葉において、はっきりとパリサイ人らに、そして私たち一人びとりに、語っていて下さるのです。

 

 それならば私たちは、カイザルのものをカイザルに返すべきであるように、神のものを神にお返ししなければならないのではないでしょうか。すなわち、神の被造物である私たちは、自分自身の全存在、全生活、全生涯、その全てを、神の栄光のために献げる幸いを与えられているのではないでしょうか。かつてCharles Weslayは「私たち人間にとって、もっとも幸いになこととは、常に神が共におられることである」と語りました。これは言い換えるならば「私たちがいつでも、どこでも、神のものであること」こそ、私たちにとって、最も幸いなことなのです。このことを心に深く覚えつつ、新しい一週間の旅路を、心を高く上げて、神の愛と祝福に支えられつつ、信仰の道を歩んで参りたいと思います。祈りましょう。