説    教              詩篇1182223節  ルカ福音書20918

                 「ぶどう園の譬」ルカ福音書講解〔181

                   2023・09・03(説教23362028)

 

 今朝の御言葉であるルカ伝209節以下には、主イエスがエルサレム神殿の中庭においてお語りになった説教の内容が記されています。それは「ぶどう園の譬」でした。あるところに、長い年月をかけて丁寧に整えられた美しいぶどう園があったのです。ところが、そのぶどう園を苦労して作った主人は、長い旅に出なくてはならなかったので、自分のぶどう園の管理を農夫たちに任せて旅立って行きました。やがて秋になり、ぶどうの収穫の季節になりましたので、その主人は旅先から「ひとりの僕」を農夫たちのもとに遣わして「ぶどう園の収穫の分け前を出させようと」しました。

 

 このように書きますといかにも事務的に聞こえますけれども、ようするに主人は、ぶどう園の収穫の喜びを農夫たちと共に分かち合おうとしたのです。ところが、なんということでしょうか、主人からの僕が来たことを知った農夫たちは「その僕を袋叩きにし、から手で帰らせた」と言うのです。やがて、その暴虐非道ぶりを伝え聞いた主人は、もう一人の僕をぶどう園に送ってみましたけれども、やはり農夫たちはその僕にも侮辱を与え、怪我を負わせて追い帰したのでした。そのようなことが実に3度も続きました。

 

ことここに至りましても、この主人は寛大な優しい人でしたので、それは他人を遣わしたからいけなかったのだろう、私の愛する息子を遣わしたなら、きっとあの農夫たちも心を入れ替えて、敬って迎えてくれるに違いない、そう思いましたので、4度目には自分の大切な一人息子を遣わしたのでした。すると、あろうことか、主人の一人息子を見た農夫たちはこう言ったのです。どうぞ今朝の御言葉の14節以下を見て下さい。「(14)ところが、農夫たちは彼を見ると、『あれはあと取りだ。あれを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と互に話し合い、(15)彼をぶどう園の外に追い出して殺した」。

 

事ここに至って、この農夫たちの悪だくみの全貌が明らかになりました。なんとこの美しいぶどう園を主人から奪って、自分たちの所有にしてしまうことが最初からの目的だったのです。だから主人の一人息子を殺したのです。それは主人を殺したのと同じことになると考えたからです。ここで、この説教を聴いていた全ての人々に、主イエスは問いかけたまいます。どうぞ今朝の御言葉の15節の途中からご覧下さい。「(15) そのさい、ぶどう園の主人は、彼らをどうするだろうか。(16)彼は出てきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう」。人々はこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。(17)そこで、イエスは彼らを見つめて言われた、「それでは、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった』と書いてあるのは、どういうことか。(18)すべてその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。

 

 主イエスから「そのさい、ぶどう園の主人は、彼らをどうするだろうか」と問われた群衆は、みな口々に「そんなことがあってはなりません」と答えました。もし本当にそんなことが起こったとしたら、それは絶対に許せない出来事ですと人々は言ったわけです。美しいぶどう園を主人から奪うために、その愛する一人息子を殺すなんて、そんな酷いことは絶対に許されませんと答えたのです。すると、続く17節に、主イエスは不思議なことを語りたまいました。「(17)そこで、イエスは彼らを見つめて言われた、「それでは、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった』と書いてあるのは、どういうことか」。この「隅のかしら石」というのは、アーチを作るときに最後に頂上にはめ込む楔形の石のことです。つまり、橋も建物もドームも「隅のかしら石」があるからこそ全体が組み合わされ、崩れることなく成り立っているのです。

 

 そこで、この「隅のかしら石」は、当然のことながら、他の石よりも硬い石でなければなりません。事実それはしばしば、あまりにも硬すぎるために「家造りらの捨てた石」となるものでした。しかし、そのような捨てられる最も硬い石こそが「隅のかしら石」となりうるのです。そのことをここで主イエスは人々にお語りになっておられるのです。それでは、その「家造りらの捨てた石」とはいったい何を意味しているのでしょうか?。それこそ、十字架の主イエス・キリストのお姿を現しているのです。エルサレムの人々は、最初は熱狂的に主イエスをお迎えしました。ホサナ(いま救いたまえ)との歌声が町中に響き渡ったのです。しかし、わずか一週間の後には、ホサナと叫んだその同じ人々が、十字架を背負ってゴルゴタの丘に続くヴィア・ドロローサ(悲しみの道)を上りたもう主イエスに向かって罵りの声をあげ、拳を振り上げ、石を投げ、唾を吐きかけて「十字架につけろ!」と絶叫するに至ったのでした。

 

 さらに申しますなら、今朝の御言葉において主イエスがお語りになった「家造りたち」とは、私たちのことを現しています。つまり、私たちは十字架の主イエス・キリストという「隅のかしら石」を捨てる者たちとして、家作りを(つまり自分の人生を)形作ろうとしているわけです。言い換えるなら「こんなものいらない」「十字架の主イエス・キリストなんか、私には必要ない」「十字架のキリストなんかなくても、私は立派に生きていける」と公言して憚らないのが私たちなのです。少し前に「断捨離」という言葉が流行りましたけれども、私たちは十字架の主イエス・キリストを断捨離して憚らない存在なのです。それは、自然的な私たちには、自分の罪がわからないからです。

 

 私たち人間は誰一人として例外なく、自然性においては神の前に罪の自覚を持たない存在なのです。それは言い換えるなら、ぶどう園の管理を慈しみ深い主人に任されながら、それを主人から奪って自分のものにしてしまおうとした、あの農夫たちの姿そのものなのではないでしょうか。自分には神に対する罪なんか無いと本気で思いこんでいる私たちは、ぶどう園に譬えられるこの世界を、創造主なる神から奪って、わがものにしようと画策する存在だということです。その結果が、神の独子なる主イエス・キリストを十字架につけて殺したことでした。キリストの十字架は私たちの罪の結果なのです。その罪はそのままに、私たちが自分を神と等しいものにしようとする自己神格化、そして、神が造られたこの世界を独占所有しようとする傲慢と破壊と戦争に直結するものなのです。

 

 それならば、どうぞ私たちは今日、心に深く覚えたいと思います。まさにそのような自己神格化の罪を繰り重ねている私たち、そして、その罪の自覚さえない私たちの救いのために、神の独子イエス・キリストは、まっしぐらにゴルゴタの十字架への道を歩んで下さり、十字架において御自身の全てを献げきって下さり、父なる神に対して私たちの罪のとりなしを(贖いを)成し遂げて下さった唯一の救い主(神のキリスト)であられるのです。その救いは少しも私たち自身の力や知恵や功績によるものではありません。私たちは神の御前に滅びの子でしかありえなかった者であり、罪人のかしらでありました。

 

 まさにその、滅びの子であり、罪人のかしらでしかありえなかった私たちを救うために、私たちに永遠の生命と神の御国の民としての自由と平安を与えるために、神の独子イエス・キリストは、あの呪いの十字架を(本来なら私たちが背負わなければならなかった、あの呪いの十字架を)私たちの身代わりになって背負って下さり、御自分の生命を献げ尽くして、私たちの罪の贖いを成し遂げて下さったのです。

 

 だから、今朝の詩編11822節には、このようにございました。「(22)家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。(23)これは主のなされた事で、われらの目には驚くべき事である」。ここにもはっきりと告げられています「これは主のなされた事で、われらの目には驚くべき事である」と。そのとおりです。私たちはただ、十字架と復活の主イエス・キリストの贖いによってのみ救われ、義とされ、イエス・キリストを唯一の「隅のかしら石」として人生の全体を祝福へと組み立てられ、この世界と人生の全体をかけがえのない恵みとして主の御手から受け取りつつ、聖徒の群れとして成長してゆく僕たちとされているのです。

 

 このことを喜び、感謝をもって受け止めつつ、いよいよ声高く十字架と復活の主イエス・キリストの御名を讃美しつつ、主の御手からたえず勇気と平安とを戴いて、信仰の旅路を歩んで参りたいと思います。祈りましょう。