説    教                詩篇1967節  ルカ福音書2018

                 「神の権威によりて」ルカ福音書講解〔180

                   2023・08・27(説教23352027)

 

 「(1)ある日、イエスが宮で人々に教え、福音を宣べておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと共に近寄ってきて、(2)イエスに言った、「何の権威によってこれらの事をするのですか。そうする権威をあなたに与えたのはだれですか、わたしたちに言ってください」。(3)そこで、イエスは答えて言われた、「わたしも、ひと言たずねよう。それに答えてほしい。(4)ヨハネのバプテスマは、天からであったか、人からであったか」。(5)彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。(6)しかし、もし人からだと言えば、民衆はみな、ヨハネを預言者だと信じているから、わたしたちを石で打つだろう」。(7)それで彼らは「どこからか、知りません」と答えた。(8)イエスはこれに対して言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい」。

 

 今日から私たちはルカ伝の20章に入って参ります。この20章からは主イエスのエルサレムにおける一週間ほどの出来事が、次から次へと凝縮されて出てきます。それはいわば十字架への道の最終コーナーであり、私たちはここに「十字架の主イエス・キリスト」のお姿を明確に見ることになるのであります。

 

 さて、イスラエルの都エルサレムに入城なさった主イエスは、今朝の1節にありますように、毎日「宮で」つまり神殿の中庭において、集まってきた大勢の群衆に福音の御言葉を語っておられたのです。主イエスは永遠なる神の独子であり、神と本質を同じくしたもうおかたですから、主イエスがお語りになる御言葉は全て、そのままに神の御言葉であります。この祝福された天来の説教を聴くために、それこそ何百人、いや何千人もの人々が神殿の中庭に集まって来ていたのは、むしろ当然のことではなかったでしょうか。

 

 ところが、これを面白く思わなかった人々がいました。「祭司長や律法学者たち」が、市民の長老たちを伴ってその場に現れ、そして主イエスの説教を中断させて申しますには「何の権威によってこれらの事をするのですか。そうする権威をあなたに与えたのはだれですか、わたしたちに言ってください」と、このように申したわけです。これは原文のギリシヤ語を見ますと、かなり威圧的な感じを与える言いかたになっています。実際にそうであったに違いありません。

 

ようするに彼らは主イエスに対して「おまえはいったい誰の許可を得て、ここで説教をしているんだ?」と詰め寄ったわけです。しかも、そういうふうに単刀直入に言いますと自分たちが責任者にされてしまいますから、ひねくったものの言いかたをしました。「何の権威によってこれらの事をするのですか。そうする権威をあなたに与えたのはだれですか、わたしたちに言ってください」とは、ようするに「お前が語っているその説教は、いったい誰の権威によってしいることなのか?」と訊ねたわけです。これは権威の所在についての問いでした。その上で、主イエスから「私は神の権威によって説教しているのだ」という答えを引き出したなら、すぐに神聖冒涜の現行犯によって逮捕してしまおうと、周到に計画された問いでした。つまり、この問いそのものがかなり巧妙な罠であったわけです。

 

 しかし、この巧妙な問いに対する主イエスのお答えは意外なものでした。どうぞ今朝の3節と4節をご覧ください。「(3)そこで、イエスは答えて言われた、「わたしも、ひと言たずねよう。それに答えてほしい。(4)ヨハネのバプテスマは、天からであったか、人からであったか」。つまり主イエスは、祭司長や律法学者たちの巧妙な罠に対して、ひとつの問いをもってお答えになったのです。それは、荒野に彗星のごとくに現れ、ヨルダン川で人々に悔い改めのバプテスマ(洗礼)を授けたバプテスマのヨハネは「天からであったか、人からであったか」つまり「彼は本物の預言者だったと思うか、それとも、偽物だったと思うか?」とお尋ねになったのです。

 

 この主イエスのお尋ねに、祭司長や律法学者たちは周章狼狽しました。どうぞ続く5節以下をご覧ください。「(5)彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。(6)しかし、もし人からだと言えば、民衆はみな、ヨハネを預言者だと信じているから、わたしたちを石で打つだろう」。(7)それで彼らは「どこからか、知りません」と答えた」。祭司長や律法学者たちにとって、大切なのは自分たちの体面を保つことだけでした。つまり、彼らは神に従う人々ではなく、自分の面子に従う人々でした。神を信じていたのではなく、自分の面子を保つことのみを信条としていたのです。だから、主イエスからの大切な問いに、彼らは答えることができませんでした。なぜなら、神からか人からか、どちらの答えをしても、自分たちの面子を失うことになるからです。だから彼らは「わかりません」と答えました。現代流に言い換えるなら「関係各省庁と協議したうえで、可及的速やかに善処いたします」と答えたのです。ようするに「なにもしません」ということです。

 

 そこで主イエスは、最後に、彼らにはっきりとお答えになりました。今朝の御言葉の最後の8節を見て下さい。「(8)イエスはこれに対して言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい」。禅語に「啐啄之機」という言葉があります。「啐」とは、ヒナが卵の殻を内側から叩く音で「啄」とは親鳥が外から叩く音です。啐と啄と両方が一つになって、はじめて殻が割れてヒナが生まれるのです。ところが、今朝の祭司長や律法学者たちには、この「啐啄之機」がありませんでした。そこには何も新しいものは生まれず、ただ虚しい面子だけが残ったのです。なぜでしょうか?。それは、祭司長や律法学者たちには、信仰がなかったからです。まことの神を信じる信仰です。これなくして「啐啄之機」はありえないのです。

 

そもそも信仰とは何でしょうか?。信仰のことをヘブライ語で「エムナ=אֱמוּנָה」と言います。そこで、さらにこのエムナという言葉の語源は何であるかと申しますと、それは皆さんもよくご存じの「アーメン」という言葉なのです。そしてさらに、このアーメンという言葉の語源はなにかと申しますと「神の真実」をあらわす「エメト」という言葉なのです。つまり、信仰とは「神の真実」を私たちの救いとして受け入れることを意味するのです。では、その場合の「神の真実」とはなにかと申しますと、それは「神が私たちの救いのために現わして下さった全ての御業」を意味します。これを要約しますと「信仰とは、神が私たちのために現わして下さった全ての御業に対する、私たちの心からの応答である」ということになります。

 

 ここで大切なことは「信仰とは、神が私たちのために現わして下さった全ての御業に対する、私たちの心からの応答」なのですから、どこまでも神の側に主語があり主体があるということです。神にイニシアティブがあるのです。私たちは神のイニシアティブに対して「アーメン=しかあれかし=お言葉どおりにこの身になりますように」と信じ告白するだけです。そこで大切なものは、知識でもなければ経験でもなく、ましてや面子でも功績でもなく、道徳的な正しさや清さでもありません。大切なのは、私たちが心から、神が私たちのために現わして下さった全ての御業に対して、アーメンと告白することだけです。「お言葉どおりこの身になりますように」と信じ告白することだけが大切なのです。

 

 もしも祭司長や律法学者たちが、そしてここにいま集う私たちが、「ヨハネのバプテスマは天からのものでした」と信じて答えるならば、主イエス・キリストははっきりと告げて下さるに違いありません。「わが子よ、あなたの答えは正しい。それで、私もあなたに言う。私があなたの救いのために語った全ての言葉、私があなたの救いのために行ったすべての御業は、神の権威によって現わされたものなのだ。だからそれは、いまあなたを救い、あなたを永遠の御国の民となし、あなたに永遠の生命を与えるものなのだ」。どうか私たちは今、真の信仰をもって、十字架の道を歩んで下さった主イエス・キリストを「わが主・救い主」と信じ告白し、いつも健やかに、まことの信仰に立って歩んで参りたいと思います。祈りましょう。